使徒 第10章34-43節 コロサイ 第3章1-4節 ヨハネ 第20章1-18節
マグダラのマリアという女性が、墓の前で泣き続けていました。けれどもその涙は、絶望の涙でしかありませんでした。泣き続けながら、身を屈めるようにして墓の中を覗き込むと、その墓の中から天使の声が聞こえた。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。後ろからも、主イエスが声をかけてくださいました。天使と同じ言葉でした。なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか――。
マグダラのマリアに対しては、教会の歴史の中で、多くの伝説が生まれました。それだけ多くの人に愛されたことを意味すると思います。ルカによる福音書第8章の最初のところには、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」という描写さえ出てきます。いったい何が起こったのか、推測することもできませんが、このことだけでも、多くの人たちにとって忘れがたいひとになったと思う。
しかし、このマリアは、何と言っても甦りの主に最初に出会った女性として、多くの人に覚えられてきました。愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! 主イエスの墓の前で、お甦りの主にお会いしたのは、このマグダラのマリアをおいてほかにおりません。あの墓の前で、何が起こったか。その時のことを、マリアは、後に教会の交わりの中で、何度でも喜んで、死を迎えるまで語り続けたと思う。
墓の中を覗き込んでいたらね、ふたりの天使が見えたから、わたしは泣きながら訴えたんです。あの人の体はどこですか、返してくださいって。そうしたら、後ろにも人が立っていて、管理人のおじさんかと思ったら、その人が突然わたしの名前を呼んだんです。「マリア」。名前を呼ばれてやっと気づいた。どうして気づかなかったのかしら。「マリア」というイエスさまの声を聴いて、初めて分かった。そこでわたしも答えて言いました。「ラボニ!」
マリアがこのような祝福の中に立つことができたのは、主が、「マリア」と呼んでくださったからです。「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(14節)。それが主イエスだとはすぐにわからなかった。けれども、名を呼ばれて初めて気づいたのです。
ここで、同じ福音書の第10章の言葉を想い起こします。主イエスが既にこう言われました。「わたしは良い羊飼いである」。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。マリアも主の羊だったのです。その名を呼ばれたのです。その声を聴き分けることができたのです。
不思議なことがひとつ。マリアは、14節と、16節、2度振り返っています。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った」。なぜ、2度も振り向いたのでしょう。福音書を書いた人は難しいことを考えていなかったと思います。体だけでなく、そのこころも、存在丸ごと、しかも何度でも、主イエスの方に振り向かなければならなかった。いや、主イエスが振り向かせてくださったのです。
おそらく私どもは、一生の間、何度でも、暗い墓の前に立つような思いを知り続けるのだと思います。既に主イエスはお甦りになったはずなのに、何度でも性懲りもなく、死の奴隷になってしまう。けれども、自分で立ち直ろうとしても、そんなことはできません。それができるのは、主イエスだけです。主イエスが、何度でも、私どもを振り向かせてくださる。そのために、主が私どもの名を呼んでくださる。
そして、今日――私どもが、マリアと共に聴かなければならない言葉がもうひとつあります。「わたしにすがりつくのはよしなさい」と主イエスは言われました。これは何を意味するのでしょうか。
なぜマリアはすがりつこうとしたのか。そもそも、マリアがこの墓の前で泣いていたのは、主イエスの遺体が消えた、すがりつく対象が完全に消えてしまったからです。奇妙なことに、主イエスご自身に、「あのお方の体はどこですか。わたしが引き取ります」とまで言っています。主イエスの遺体を愛していたのです。私どももこのマリアの気持ちをよく理解できると思います。死んでも、私どもはその愛する者の体を愛するのです。その骨をも愛するのです。
かつて、私とほぼ同い年で亡くなったという方の納骨をしました。そのご両親にとっても、納骨をするということ自体、一大決心であったと思います。家に骨壺があれば、まだ何となく慰められるものです。けれども、やっとのことで決心をして、納骨をすることになった。しかし当日、墓地で私が短い説教をし、讃美歌を歌い、さあ納骨しましょうというときに、やはりお母さんは、骨壺を抱きしめながらしばらく泣いていました。その気持ちに共感できない人はいないと思います。それでも、墓に行けば娘の骨が残っていると思えば、まだ心が支えられるものですが、マリアの場合には、その体もなくなってしまったのです。恐ろしかったと思います。空っぽになった墓と同じように、自分の心にまで、ぽっかりと大きな穴が開いたような思いではなかったか。自分で抱きしめることのできるものが、完全に姿を消したのです。
そのマリアの背後に、しかし、主イエスが立っておられた。うれしかったと思います。ああ、わたしのイエスさま、わたしの先生。もうわたしはあなたのことを放しません。けれどもそこで、マリアは思いがけない言葉を聞かなければなりませんでした。
あなたのすべきことは、わたしにすがりつくことではない。もっと他に、するべきことがあるだろう…! 兄弟たちのところに行きなさい。そして、伝えるべきことを伝えなさい。
マリアは、主イエスにすがりつく代わりに、弟子たちのところへと遣わされる――。この出来事について、こういうことを指摘する人がいます。最初、墓の中にふたりの天使が見えた。ふと後ろを振り返ると、そこに主イエスが立っておられた。ところで、このふたりの天使はどこへ行ったのか。いつの間にか、完全に姿を消している、と。私も、はっと気づかされたことがありました。ギリシア語の文字では、12節の「天使」という言葉にそのまま動詞の語尾をつけると、18節の〈告げ〉、〈伝えた〉という言葉になるのです。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と〈告げ〉、また、主から言われたことを〈伝えた〉。
そうです! いつの間にか姿を消した最初のふたりの天使――。けれども、その代わりにマリアがひとりの天使のようになって、ほかの弟子たちのところへ遣わされるのです。
マリアは、本当にうれしかったと思います。喜びの涙が止まらないほどの思いで、弟子たちのところに飛んで行ったと思います。そして、主のご命令に従って、地上でのいのちの続く限り、伝えるべき言葉を伝え続けました。まさに天使として生き続けた。そのようにして、教会の歴史が始まったのです。
愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! これは、私どもの物語、皆さんの物語です。このような教会の歴史を作らせていただいていることを、改めて感謝をもって受け入れたいと思う。
特に今、悲しみの中にある友、墓穴の暗さの中に吸い込まれそうな思いの中にある方のために、私もまた、ひとりの天使としてこころから告げます。主はお甦りになりました! いつでも、振り向けば必ず、主のお姿を見出すことができるのです。