使徒 第2章14節a、22-32節 Ⅰペトロ 第1章3-9節 ヨハネ 第20章19-31節
彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい…!(第20章22節)
“霊”、あるいは“聖霊”。旧新約聖書のもとの文字では、どちらも、様々に訳すことのできる言葉なのです「息、風、空気、命」。これらが一つの言葉になっている。私たちは、空気を呼吸しながら生きています。息を吸い込んで、吐いて、吸い込んで吐いて――。そこでもしも、新しい風が“フゥーッ”と吹いてくると、私たちの肺の中に、新しい空気がいっぱいになります。そして吐く息で、私たちは言葉を語るのです。
主イエスもまた、空気を呼吸しながら私たちと同じように、この地上を生きられました。しかし主イエスは、どんなによどんだ空気の場所であっても、憎しみや、殺意や、悲しみや、疑いや、絶望が立ち込めた場所にあってもその中に入って来られ、新鮮な息をすることのおできになった方でした。神の息そのものを呼吸なさっていたからです。だから主イエスのお語りになる言葉はいつでも新鮮だった。このお方は、愛そのものでいてくださいます。主イエスは希望そのものでいてくださる。喜びそのものものでいてくださる。
けれど、その主イエスもまた、いったん呼吸を止めざるを得ませんでした――。皆が殺したのです。その自由さが我慢ならなかったので主イエスを十字架の上にあげて殺したのです。息を止めた。しかし主イエスはその最後で、ヨハネ福音書によりますと、大きな息を吐き出されました。
成し遂げられた…! そう、わたしが歩む道はすべて歩んだし、わたしが人間たちにしてあげられることはすべてした…! (第19章30節)。そして墓におさめられたのです。しかし、墓の中で、主イエスは新しいからだを、新しい命を得た。もういちど、その肺一杯に、“スゥーッ”と息を吸い込まれた。そして、その復活の命を“スゥーッ”と吸い込みまして、今度は弟子たちの真ん中に立ってそれを吐き出してくださるのです。“ハァーッ”と息を吐き出してくださる。聖霊を受けなさい…!
礼拝というのは、この、命の息を呼吸する場所です。ここに主イエスは、目に見える仕方ではおられませんけれども、私どもこの神戸教会の真ん中にいつでも立っていてくださる。そして、どのくらいの大きさの主イエスでしょう。――私は、こういう時の復活の主イエスというのは、ほんとうに大きな方のように思えて、まるで天井にも手が届くようなお方のように思えるのですけれども――私どもの真ん中にいて、今も“ハァーッ”と、わたしの息を吸い込め…! って言ってくださる。そして、吐き出してくださるのです。
ここは、この世に立ち込めているのとは異なる空気を吸う場所です。天から吹き込んでくる風を、吸い込む場所です。そして主イエスはこういうふうにおっしゃった。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす(21節)。
主イエスが父なる神から遣わされたように、その主イエスと同じように主イエスは私たちを遣わしてくださる。そうです! 私ども皆が、主 イエスになるのです。私たちみんなが、小さなイエスになって、新鮮な空気を吸った後に出て行け、とおっしゃるのです。わたしイエスが地上で、父なる神から託されて行われたみわざを、あなたがたも、わたしから派遣された者として行ってご覧…!
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る(23節)。
“赦される”。もとの言葉は“解き放つ”という意味です。私たちは時に自分の罪にがんじがらめになっていることがある。鎖に縛られていることがあります。しかし、主イエスはその鎖を断ち切ってくださったのです。もう私たちは罪人ではない。ゆるされている。そして、この言葉は、牧師ひとりに委ねられているのではないのです。キリスト者すべてに委ねられている。皆さんが、出会う人が、もし、その手や、足を、あるいはこころを、何か鎖でがんじがらめに縛られているようであれば、それを解き放ってあげるのです。それが、私どもの仕事です。聖霊をいただいて、悲しみ、苦しみ、望みのない状態に縛りつけられている者たちに、“あなたは解き放たれる…!”と、告げてあげるのです。そして、私たちがそれを解き放つときに、天でもその罪は赦される、解き放たれるのです。
主イエスが、弟子たちをお訪ねになったとき、彼らは、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。ある人は、彼らが恐れていたのはユダヤ人だけじゃない、主イエスさえ恐れていたのだ、と語ります。そうでしょう。この弟子たちは、主イエスが復活なさったことをすでにマグダラのアリアから伝え聞いているのです。にもかかわらず、みんな喜んで、さあイエスさま来てください…!”と喜んで扉を開けて待ってたんじゃない。ユダヤ人を締め出しただけではありません。主 イエスをも、締め出したのです。
そのような弟子たちに向かって、“ハァーッ”と息を、吐いてくださる。復活の、息です。墓の中でもう一度新しく吸い直した息です。よみがえりの命の息を、吐きかけてくださる。そして、その息をもって、
あなたがたに平和があるように…! 二度までも――平和があるように…!と言ってくださる。
主イエスは恨まない。私どもを脅しません。縛りつけません。もういちど、自分でも苦しく思っている鎖にさらに鍵をつけるようなことはなさらない。鎖を解き放つのです。“平和があるように…!”
そして、手とわき腹とを見せられた。主イエスの手には傷がありました。脇腹にはトマスが指を突っ込もうと思えば容易にできるほどの、大きな穴が開いていた――。聖霊に満たされるとき、傷はなくなりません。傷はそのままなのです。悲しみは、悲しみのままかもしれない。人からつけられた傷はそのままかもしれません。もしかすると、疑いさえ、疑いのままでしょうし、恐れもまだ残っているかもしれない。その、肉体に、私どものその傷をもっている肉体に主イエスは、“ハァーッ!”っと、吐息を吹き入れていてくださる。
“遣わす(21節)”とは、“エンジェル”ということばの語源となった言葉です。エンジェル――。そう、遣わされるものは皆、天使になるのです。私どもは、主イエスと同じように、傷のあるままの肉体であるかもしれません。傷のあるままの魂であるかもしれない。けれども、この私であっても、復活の命、復活の聖霊をいただいたのです! そして、その体をもって、時には、足を引きずりながら、時には、震える、手で、時には、もつれる舌で、そっと語ってあげたらいい。
聖霊を受けよ…! 解き放たれよ! 主が来てくださった。主がよみがえってくださった…! 平和、平安があるように、と――。
若くとも、年を重ねても皆さんは天使です。解き放ちましょう。皆さんは、天使でいらっしゃる。どうぞ、それぞれの場所で、鎖に苦しんでいる者たちに、さらに鍵をつけるようなことはなさらないでいただきたい。解き放ちましょう…! ――恐れ、疑い、暴力に対する暴力に、充ち溢れている時代であるからこそ、私どもは解き放ちながら生きる。そしてこのからだに、主イエスが、聖霊を注いでくださる。主イエスの復活のお身体がこの身体に住んでくださる! そしてその主イエスの身体ごと、私たちは家に帰って行く。教会はそのようにして、生き続けてきましたし、これからも、二千年の教会と共に歩んでゆくのです。