暴力的な社会で柔和に生きる

ゼカリヤ第9章9-12節 ローマ第7章15-25a節 マタイ第11章16節-19節、25-30節

 わたしは柔和で謙遜な者だ。あなたは、わたしに学び(=弟子となって従い、生き、歩み)なさい――。

 「柔和」と聞くとき――何と言ってもまず、このマタイによる福音書が伝える山上の説教(祝福)で、主イエスがこうおっしゃっているのを想起します(第5章5節)。

 “柔和な人々は、幸いである”。

 この、「柔和な人々」という文字を、たとえばあるひとは、“忍耐深く生きる人びとは幸いである”と訳します。ある、重荷を、痛みを、忍耐しながら生きている人たちのことです。あるいは、“力づくで生きようとしない人たちは幸いである”。そう――私どもの、毎日の生活の中で、力と力のせめぎあいの中で生きていますから、それに対して私どもも小さいながら自分の持っている権利や、権力や権威を振り回したくなります。しかしそれをしない。柔和に生きるのです。あるいはさらに、こういうふうに訳すひともいる。

 自分が、赦される必要のある人間であることを知っている人びとは、幸いである

 いずれにしましても、力が渦巻く世界、暴力的とでも言って良いような世界の中で、その狭間に立ちながら、痛みながら生きている、権力争いしないで生きている人たちです。自分の中にある弱さを、痛みを知っているゆえに、主イエス・キリストの前に絶えず跪かなければならないことを知っている者たちです。

 主イエスは、そのように、御自分の前で跪く私どもに対して、“あなたは幸いだ…”と言ってくださる。

 ある人が“民主主義の社会”というのは、“王がいなくなった代わりに、沢山の小さな王を生み出した”と言っています。どこに王がいるのか――。一人ひとりです。みんな平等な権利がある。それを前提としています。だから、あちらでも、こちらでも、自分の権利と利益を主張する声が渦巻いている。大きな声が聞こえます。尖った刃が突きつけられます。それに対して私たちが無防備に生きることはできない。

 大きな声に負けないように、時には大きな声を出しますし、尖った刃で思いをするならば、その、刃がどれほど人に悲しみを与えるか、こちらも刃を突きつけてやりたくなる。違うでしょうか――。けれども、そうしながら私たちはほんとうに寂しい気持ちになる。

 あるひとが、こういうことを言っている(キリスト者・写真家・ジャーナリストの桃井和馬氏)。

 「みんな、正義の反対は悪だと思っている。だから、正義に燃えている人たちは、熱烈だし、一所懸命だし、揺らぐところがない。けれどもそれは、自分は間違っていると思う。正義の反対は悪ではない。正義の反対は正義だ」。そう、相手もまた、正義の中に在るというのです。もし、どちらも正義であるならば、あとは、いったいどちらの力が強いか。大きな声を出すってことになるでしょう。大きな声を出して勝てそうもない相手であるならば、ギュッと口をつぐんで、こころ固く閉じて、無視をするってことでしょう。しかし、そのようにして私たちは、正義と正義がぶつかりあう世界の中に来ている。皆正しいのです。皆要求がある。皆それぞれの、正しさと、プロセスを持っているのです。

 しかし、主 イエスが切り拓こうとしていてくださる世界、また、切り拓き続けてくださっている世界っていうのはそういう世界じゃない。正義を振りかざして、相手を踏みつけるような世界ではないのです。

 「わたしは柔和な者だ…」。この、主イエスの御言葉を聞いて、誰もがこころに留めますことは、今日の第一の日課である、ゼカリヤ書の第9章9節です。主イエス・キリストがエルサレムに入られるときに、このゼカリヤ書を歌って民衆たちは主イエスを迎えたのです(旧約1489頁)。

 まことに不思議な、王です。主イエスはこのとおりエルサレムに入る時に、軍馬に乗らなかった。子驢馬に乗った。小さな、驢馬に、大のおとなが跨る。それは不思議な姿だったでしょう。普通、王というのは軍馬や駿馬に乗って入城するものだからです。しかしこの、驢馬の子に乗った王が、戦車を、また、軍馬を 戦いの弓を絶つ というのです(ゼカリヤ書第9章10節)。何という壮大なヴィジョンであることでしょう

 平和をもたらすためには、軍備・防衛費を増強し、相手国に脅かされない国をつくらなければいけないという声を、私どもは未だに聞く。国の話だけではない。私どもの生き方自体がそうです。戦わなければならない相手がいるならば、平和をもたらさねばならない場があるならば、自分が馬鹿にされずに相手よりも居丈高に出て、自分が握り締めた一点の正義を振りかざして相手を打ちのめしたくなってしまう。違うでしょうか――。そのようなことを、私どもはこの社会から教わって育ち続けてきたからです。けれども主イエスは違った。驢馬の子に乗ったのです。笑われ、馬鹿にされたでしょう。“何だあの男は…

 主イエスは、大きな声を出されることはありませんでした。もちろん、それはいつでも優しく、イエスマンで生きる、“はい、はい”と言いながら、何でも受け容れて、ノーと言わないで生きるということでは決してありません。主イエスも御叱りになりました。実に激しく、荒ぶる時もおありになった――。けれども、相手の息の根を止めようとしたり、踏みつけよう、排除なさろうとしたことは、ただの一度もないのです。

 驢馬に跨って、エルサレムに入った主イエスを、群集皆が歓迎しました。やがて、皆が寄ってたかって主イエスを殺しました。この男には、力がない。彼は、敵を倒さない。そのことを、皆が耐えられなかったのでしょう。主イエスは裁判の席でじぃっと黙り、口を開かれなかった、何故か。あるひとは言います。「主イエスが裁判の席で口をお開きになったら、周りの者がひとたまりもなかったからだ」。

 私どもの、主イエスが、十字架の上から、跪く私どもを見て、御叱りになるのならば、私どもを軍馬に乗って踏みつけられるのであるならば、私どもはひとたまりもない。私どもが負うべき傷をすべて負って、黙って、十字架についてくださった。神の大きな柔和、慈しみと痛みに満ちた柔和に私どもは支えられている…そして、その柔和さが必ずこの地を受け継ぐのです。

 私どもは時々騙されてしまう。20年30年で、目まぐるしく変わる時代、これがほんとうの現実だと思ってしまいます。しかし、逆かもしれない。この社会が未だ寝ぼけているのです。まだ、力争いをしなければ、この世界の中で生き残れないと思っているのです。主イエスは、二千年、キリスト者を生み出し、造り続けることで、この世界の歴史を築き続けてきました。少しずつ、一歩ずつ、優しさが、人が人を思いやるこころが、相手のことばに耳を傾ける、そのような歩みがこの世界を造るということに、ようやく、この世界は気づき始めている。そうでなければこの世界は、地を受け継ぐどころか、地を滅ぼすしかないのです。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん 私どもが、悲しむ。こころ貧しくなる。そして柔和に、忍耐しなければならないのは、とんでもないことをされていることじゃありません。愛したいからでしょう。そうです、私どもは、ただ、愛したいのです。私どもを待っている者を愛したい――。だから傷つくのです。しかし、そのような愛が、必ず地を受け継ぐ 今、この世界に最も必要とされているものです。主イエスが、今日も私たちに目を留めてくださって、声をかけ・語りかけてくださいました。

 柔和な人たち、あなたは幸いだ… あなたの生き方は間違っていない。あなたは、地を受け継ぐ――。