ヨブ記第38章1-11節   コリント二第6章1-13節  マルコによる福音書第4章35-41節

 今日の福音書日課から始まる、3つの奇跡物語――この奇跡物語というのは、わたしはこれ、どれも破格の物語だと思う。そして、この奇跡物語を読み始めてゆく最初に、わたしはどうしてもご一緒に、こころに留めておきたい主イエスの言葉があるのです。それは、譬え話の中で、主イエスが幾度も繰り返されていた言葉。「聞く耳のある者は聞きなさい」。あるいは、「何を聞いているかに、注意しなさい」。

 わたしは、この主イエスの言葉は――譬え話についてだけではありません。それに続く、これから読む、奇跡物語をいったいどのように読んで行ったらよいか、何を聞いたらよいか、何を聴き取ったらよいか。私どもの信仰について、問われているように思う。中には、こういう奇跡物語について、合理的な解釈・説明を試みるひとたちがおります。たとえば、「ガリラヤ湖というのは地形の関係で、突然突風が吹き、湖が荒れまくる。けれどそれは一時的なことですぐに止んでしまう、そういう気象条件を持つ湖だ」。「そしてたまたまイエスが“黙れ、静まれ”と発した時に、その条件がピタリ一致した」と。

 これわたしは思う。何とつまらない読み方かと――。

 あるいはこの後、第5章に出てくる“ゲラサのひと”についても、二千匹ほどの豚が、崖を下って湖になだれ込んだその凄音を聞いてショックを受けた(ショック療法)から彼は急に正気を取り戻したのだ、と言い――あるいは、逆の読み方もある。とにかく主イエスは神の子なのだから、このように、風でさえ、湖でさえ、自然の諸力でさえも治めるそのような超能力のようなものがある――と。わたしは思います。両方とも、これまた同様に、実につまらない読み方だと。

 わたしは、奇跡物語というのは、誰かにあれこれ解説・解釈してもらうのではなく、幾度でも、幾度でも情景を思い浮かべながら、自らこころのなかで繰り返したらよいと思う。そのようにするときに、ここに語られていることが、まさしく、〈私どもの・私の物語〉であることがよぅく分かるようになる。

 主イエスはおっしゃった。「向こう岸に渡ろう…」(第4章35節)

 そう、私どもも、主イエスと一緒に旅に出たのです。主イエス・キリストに従うということは、それまで歩きなれた場所と違う場所へ、歩いていくことです。あるいは小さな小舟に主イエスをお乗せして、旅に出るのです。舟出する――信仰を、いただいたからと言って、私どもは、新しい職業・務めにつくわけではない。新しい学び舎に進むわけではありません。それでも、私どもは小さな専門家として、主イエスと一緒に旅に出ます。そう、弟子たちが、漁師として魚の、舟の、湖の専門家だったように、私ども、あなたも、小さな専門家です。職業や務めに限らず、生き方においても、あるいは親として、子として、それぞれ自分が、ここだけはよくわかっているという場所を持っている筈です。ここは自分の場所だ――と。その中でもう一度私ども、新しい旅に出るのです。主イエスと一緒に、愛の旅に出る。奉仕の旅に出るのです。

 ところが、私どもの生活はいつでも青空のもと、順風満帆というわけにはいきません。仕事をしていても、頓挫することがある。病気になります。思わぬ家族の問題が舞い込んで来る。学生であれば、試験に失敗することもあるでしょう。小さな嵐がやって来ます。人から見たら小さな嵐かもしれない。しかし、実に自分にとっては激しい嵐のように思える。漕ぎ悩んでしまう。暗闇の中で独りぼっちになってしまう。一所懸命やってみるのです。一所懸命自分に起こる問題を何とか切り抜けようと思う。しかしうまくいきません。

 ふと、傍らを見る。“向こう岸に渡ろう――”と、おっしゃったのは主イエスの筈なのに、その主イエスご自身は寝ておられる。寝ている主イエスならいてもいなくても同じです。尚更一所懸命やる。一所懸命やればやるほど、今度はまた主イエスの存在が目に入らなくなる。しかも傍らで主イエスは、いびきをかきながら寝ている。知らん顔をして寝ておられる。そこで、私ども苛立つ――。

 先生、あなたが、あなたが一緒に歩もうと言われた旅ではないですか。あなたをお乗せして、私は新しい人生に出たはずではなかったですか。それなのにあなたは一向に何の力にもならず、私どもは溺れそうです。私がこんなに一所懸命やっているのにあなたは眠っておられる

 しかし、今度は逆に主イエスのほうが起ちあがる。風に向かって、風を叱ったとありますが、これは、弟子たちにとって、そして私どもにとりましても、自分たちに向けての叱責であると受けとめざるを得ません。

 主は、私どもに対して、主イエスに対する信頼を問うておられる――けれども思います。どうして主イエスは寝ておられるんだろうか。私どもが、一所懸命に生きているのに、まるで主イエスの奇跡の力を見ることができない。主はちっとも知らん顔をしておられる。そのような生活が起こり得るのだろうか――。

 安心しておられるのです 主イエスはまだ、目を覚ますほどの、大きな出来事ではないと判断しておられるのです。まだ大丈夫なのです。小さな専門家である私どもに、主 ご自身が、ご自分を委ねておられる。主イエスがまだ、起き上がって風を鎮め、波を鎮めるほどの、大きな出来事ではないのです。

 私ども時々、主イエスのお姿が見えなくなることがあります。主イエスと出会い、このお方に触れるというのは、毎日が新鮮になるということでしょう。新しい恵みに日々、出会うことができる。しかし、そんな鮮やかな日々が、しょっちゅうやって来るわけではありません。昨日と同じ仕事を、今日休むと、明日、また、続けるのです。起き上がっても、なすべき仕事は同じ仕事です。問題の解決も、すぐに起こりません。眠っている間に、朝目が覚めたら、家にいた 夫が違う、妻が違う、違う子どもがいた。そして急にみんな優しくなった――今日なすべき、山ほどの仕事が、パァッと片付いていた。自分の、身体の痛みが、朝起きると“パァッ”と取り去られてきた、そんなことはあまりない。

 主イエスは寝ておられるのです。安心しておられるのです 私どもが、まだ、生きていくことができる。まだ取り組んでいくことができる。そのことに信頼して、私どもの力に信頼して、すぐ傍で、寝息を立てておられる。主イエスはおっしゃいました。「黙れ。静まれ… 」。

 なぜ怖がるのか――。まだ信じないのか… わたしが一緒にいるではないか。あなたの傍らで眠っているではないか。まだ信じないのか――。わたしが、あなたを贖ったことを。わたしが、あなたを用いていることを。わたしがあなたを、誰よりも愛していることを。そのことをまだ信じないのか――。

 主イエスは舟の中に、あなたの舟の中におられる。私の舟の中に寝ておられます。そこでなすべきわざをなしてゆけばよい。今しばらく、悲しみが続くかもしれません。苦しみも続くかもしれない。しかし、眠っておられる、主イエスの傍らで、悲しんだらいい。苦しんだらいい。せっせせっせと、舟を漕いだらいい――。

 私どもの日々に、あなたが、主イエス・キリストをお与えくださっていることを、感謝を致します。どうぞ、主がいてくださるのですから、私どもが、どのような波にも溺れることがないことを、信頼させてください。主イエスが眠って、すぐ傍にいてくださることに、私どもが目覚めて、気づき続けて行くことができますように。どうか、主よ、あなたがお望みならば、今しばらく私どもの傍らでお休みください。しかしどうか主よ、私どもに、耐えきれない 試練をお与えにならないでください。主イエス・キリストによって祈ります。