使徒言行録 第1章1-11節 エフェソ 第1章15-23節 ルカ 第24章44-53節
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルカ 第24章50-51節)
わたしはこの場面がとりわけ好きです。子どもたちにも折にふれて語ってきました。ある日の礼拝で、こんなことがありました。いつものように話し始めました。
――イエスさまはね、弟子たちとの別れのとき、両手を大きく広げ、高く掲げて、祝福された。大丈夫だよ、ってね。そして祝福しながら。祝福の手を広げたままで、天に上げられたんだって。
子どもたちは、笑ったり何かを考えたり、表情を変えながら、聴いています。
――イエスさまは、今もずっと、祝福の手を上げたままなんだよ…。突然、子どもが声を出しました
「エーーーッ!! イエスさま、疲れちゃうね」 子どももおとなも大笑いでした。
ルカが著した福音書は、好評を博したようです。そこで彼は再びペンをとり、第二巻として使徒言行録に着手しました。そのとき、連続ドラマに時々あるような始め方をしました。冒頭で前編の最終場面をなぞったのです。使徒たちの目の前で天に上げられる、主イエス。そこに天使の声が響きます。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(第1章11節)
主イエスが再び来られる日、あなたもわたしも、あの日の使徒たちが見たのと同じ、主のお姿を見るでしょう。愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! そのとき、主は、まだ祝福の御手を上げておられるのです! ――けれど、思えば不思議です。
わたしたちの主がこの地上で宣教を始めたのは、およそ30歳のころ(ルカ 第3章23節)。十字架につけられたのは、それから3年後。あるいは1年後ではなかったか、と想像するひともいます。あまりに短い年月です。主イエスご自身が、もっと働くことだってできたはずです。もっと語るべきこと、癒すべき人、慰めるべき相手がいたでしょう。それなのに、あとの働きはすべて使徒たちに、そしてあなたとわたしにお委ねになったのです。マタイによる福音書は、次の言葉で閉じられています。
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ第28章18-20節/口語訳)。――これもまた、不思議な言葉です。
主は復活によって、父なる神からいっさいの権威を授けられました。だったら、弟子たちにこう告げてもよかったはずです――。それゆえに、お前たちはもういらない。あとは、わたしがひとりでやる。
しかしそうではありませんでした。主は、こう告げたのです。「それゆえに、あなたがたは行け」
主はすべての祝福を注ぎ込み、世界の至るところにいるキリスト者を、この神戸教会に連なる一人ひとりを――そして、あなたとわたしを――小さなキリストとし、ご自分のわざのために用いてくださるのです。
主は、「見よ」と言われました(マタイ第28章20節)。何を? もちろん、神の独り子イエスです。天においても地においても、いっさいの権威を掌握した王です。そして同時に、祝福の御手を下ろさず、世の終わりまでいつも私たちと共におられ、すべての力を私たちに注ぎ込んでくださる我らの主、キリストです。
復活した主イエスが、今でも地上で過ごしておられたなら、私たちは主に会うために、どこか遠くまで出かけていかなければならないでしょう。しかし今、わたしたちの主は天におられます。愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! 天はどこでも開かれます。わたしたちが、どこからでも「天の父よ」と呼ぶとき、使徒信条が告白するとおり《全能の父である神の右に座し》ておられるキリストを仰ぐことができます。
ルカが、昇天の主イエスを描いて自らの福音書を閉じるにあたり、手を上げて祝福なさるお姿が、目に見える最後のお姿であったということは、やはり、意味深いものです。それによって祝福の勝利が宣言されています。今から後、わたしたちはすべて、この身このまま祝福され、この身このまま祝福を受けて生きることが赦された者です。そうです、愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! 転んでも祝福の御手の中、立ち上がっても祝福の御手の中なのです! このことを先取りして、主は、ガリラヤにおられるとき、印象深い祝福(=幸い)の説教をなさいました。(ルカ第6章20節以下/マタイでは第5章1節以下)
「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる」。
この「幸い(=祝福)」という言葉は、文語訳聖書がそうしていたように、ギリシャ語原文では、ルカ・マタイのいずれも、冒頭に来ているものです。「幸いなるかな、貧しき者…!」と――。冒頭に来ているというのはとても大事なことです。それは、貧しいとか悲しいとか、つらいとか、心が貧しいとか、弱いとか、罪深いとか、そのような、すべての人間的な条件に先立って、まずあなたは、幸いな存在、祝福された存在なのだと、主イエス・キリストが直接言ってくださっているということなのです。祝された者達よ…! この言葉が、いきなり、主の口を出、そしてリフレインされます。
今わたしは、とても不安かもしれない。今わたしは独りぼっちで寂しく悲しい。今わたしは、自分の心が弱くて、誘惑に負けて情けない。今わたしは、心の貧しさを嚙みしめている。いまわたしは貧しさがつらい。今わたしは、人を憎む心が克服できなくて苦しい…。わたしたちは、そんな諸々の思いを抱いて、どこか深いところで思っています。自分は、本当は神をいつも怒らせているかもしれない。本当はいつか罰を受けるかもしれない。本当はいつか、捨てられるかもしれない。いや、いつかではなく、今自分は罰を受けているのかもしれない。そうも感じます。けれど、キリストの思いはやはり違うのです。キリストの究極のお姿は、すべての聖も濁も併せ飲み、すべてのものを包み、祝福を送ってくださる、そのお姿です。このお姿が永遠のお姿、今も、後も、永遠に、わたしたちと共にいてくださる、変わることのないお姿です。
祝福を受けよ、心貧しきもの、弱きもの、罪深きもの、神に背くもの、神を逃げるもの、祝福の大地は、あなたの罪で微動もしない。あなたの罪は、この祝福に対しては、何の妨げにもならず、効力もない…!
広げられた御手は、そのすべてを包むのです。「幸いだ…! 今、祝福されているあなたは――」。
すべてを越えて包み祝福してくださるイエス・キリストこそ、「今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれた方」(エフェソ第1章21節)なのです。御手は広げられています。祝福の御手です。聖も濁も飲み込み、すべてのものを祝福の内に包み込んでくださる御手です。