蛇のように賢く、鳩のように素直に

出エジプト記第19章2-8a節  ローマ第5章1-8節  マタイ第10章16-23節

 今日の第10章の16節以下、ある人はこれを、12弟子に対する主イエスの贐(はなむけ)の言葉だと言いました。おもしろい表現だと思う。贐――送別の言葉です。そのようなことを主は、ここで、選ばれた12人を派遣するにあたって語られた。しかしそれにしても、不思議な贐の言葉です(16-23節)。

 主イエスは、まず、この使徒たちにこうおっしゃいました。

 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ(16節)。

 12使徒を、それぞれの場所に送り出す。それは、狼の群れの中に――「群れ」です。一頭二頭だけじゃない。何十頭、何百頭もいる狼の中に、たった一匹の羊を放り出すようなものだ。その羊を見て、それまでは何でもなかったものが狼の本性を、むき出しにすることもあるかもしれません。あるいは、その羊を、散々弄ぶような狼もいるかもしれない。けれどもいずれにしましても、使徒たちをこの世に送り出す、それは、暴力が待ち受けている世界に、柔和な者を送り出すようなものだと主は おっしゃる。

 これは、私たちには、意外ですし、耳を塞ぎたくなるような言葉かもしれません。なぜなら、12使徒だけではないからです。“キリスト者がこの世で生きる”ということは、暴力が待ち受けているこの世界に対して、無防備に戦うということなのです。主イエスは、暴力に対して暴力をもって戦えと、おっしゃったのではない。あるいは、暴力にも負けないほどの、それ以上の力を、私どもに授けてくださるわけでもない。主イエスはこの世に対して、独特な戦いをなさいました。マタイの第4章に、主イエスの伝道の第一声が記されています。第4章の12節です。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。それが主イエスの宣教の第一声です。悔い改めよ――。「帰って来い」って言葉です。ほんとうの意場所に帰って来い…

 けれど、その第一声をどのような状況で発せられたのか。第4章の12節、「主イエスはヨハネが捕らえられたと聞き」。洗礼者ヨハネ、自分に洗礼を授けてくれた男のところにまで、暴力の力が近づいたのです。主イエスのご生涯の大切な働きは、30歳の頃に始まったとよく言われます。どうしてその時、伝道を始め、自分が神の子として生まれたということを公になさったのか。――それは、直ぐ近くに、人を殺す、権力ですとか、人を食い物にする 物凄い、抗うような力、それが近づいたからです。あるひとはこれを、「主イエスの非暴力運動のスタートだ」と言いました。アメリカの神学者です。成程、アメリカというのはマーティン・ルーサー・キング牧師を知っている国ですから、そのように言うのかもしれない。主イエスはこの、刀や棒をもって、人びとを抑えつける、そういう世界が、直ぐ近くに迫った時に、何をなさったのか――。説教なさったのです神の言葉を語り始めたのです。主イエスは敢えてその手段を選ばれたのだとその人は言う。

 わたしは、たいへん興味深いことだと思います。教会というのは、戦う集団です。私たちは、この社会の中で其々がそれぞれの場所で、戦いを強いられています。けれどその時、何をもって戦うのか。神の言葉をもって戦うのです。武器を持つ者に対して、自分を傷つけようとする者に対して、「帰って来い…」。「あなたの本当の居場所はそこには無い筈だ。」「神の国はもうすぐ近くにある。」「神が呼んでおられる…。帰って来い

 だから、このマタイ福音書第10章でも、主イエスは弟子たちに、説教の言葉を授けています。たとえば、7節、「天の国は近づいた」。主イエスと同じ言葉です。同じく12節、「平和があるように」。そう、わたし、私たちもまた、この言葉を心にしながら生きるのです。「神の国は近づいた」。もう、意地悪をしたり、復讐に復讐をもって返したり、正義と正義の戦いによって、傷を深めていたり…その時は終わった。「平和があるように。平和があるように…」。そのようにして日常を歩いて行く。だから主イエスはおっしゃった。

 蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい――(16節)。狼の群れの中で、鳩のように素直に振る舞え、相手にされるがままにされろ、そういうことではありません。神に対して素直でいなさい、ということです。神の言葉に対して鳩のようにいなさい、ということです。この世に対しては蛇のように賢く生きなければならない。この世の生き方で、ただ流れに翻弄されるように素直に生きているならば、私どもはたちまち餌食になってしまう。けれども、そうじゃない。神の言葉を棄てないで欲しい…

 鳩というのは、何時でも鳴いています。クルックル クルックルと鳴く。それと同じです。私どもは教会の外に一歩出ますと、色んな言葉を聞く。しかもしれは、人を傷つける言葉であったり、貶める言葉であったり、相手を力でねじ伏せようとする言葉であったり、けれどその時にも、あなたは鳩のようでいて欲しい。“クルックル クルックル”と…。同じように私たちは繰り返しながら生きるのです。「神の国は、直ぐそこにある」「平和が、間もなく訪れる」。主イエスが私どもに対して「世の終わりまで共にいる…」と言ってくださっている。そして、それぞれの町へ、それぞれの家へ、それぞれが向かう場所を過ごしているのです。

 主イエスは既に、弟子たちに、そして、私ども一人ひとりに向かって言ってくださいました。「あなたは地の塩、あなたは世の光…」(第5章13、14節)。“塩”というのは、僅かなものです。もしもある料理に、10%も20%も塩が入ったら、塩っ辛くて食べられやしません。甘い、あんこにも、僅かな塩が入る。それはほんの少しです。私どもも塩です。しかし、その塩としてどのように生きたらよいか私どもは蛇のように賢く考えなければばらない。私どもは世の光です。光だって、あっちにもこっちにもテカテカ光っていたら眩しくて仕方がない。暗闇の中にそっと 灯っているから光なのです。希望なのです。

 では、私どもが、この世界の中で、光として生きて行くにはどうしたら良いか。主イエスは時々私たちを、自分でも考えていなかったような、行きたくなかったような場所に、遣わされます。「わたしについて来なさい…」とおっしゃりながら。自分には負い切れないかと思えるような責任を託されることもあります。しかしその中で、鳩のような素直さを持ちながら生きる。

 しかもその時私たちは、自分の力絞り出す必要はありません。予め、あの場所に行ったらああしようこうしようと考える必要はない。主は言ってくださいます。「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊なのだ」(20節)。――私たちは新しい場所に歩み出すときに、いったいどうなるだろうと色んなことを考えて思い煩います。けれど、そんな必要はない。主イエス・キリストは共にてくださる。父なる霊は私どもの内側にいてくださる。そして、語るべき言葉を語らせてくださる、というのです。

 さあ、新しい一週間が始まります。どうぞ、皆さんの生き方が、時に、周りに受け入れられないことがあっても驚き過ぎないでください。私どもキリスト者は、1%です。けれどもその時に、鳩のような素直さを失わないでください。蛇にならないでください。けれども同時に、鳩ばかりにならないでください。この世の戦いは、まだまだ続きます。蛇のように賢く生きてください。私どもの言葉を、待っている者がいます。何よりも、主イエスが、私どもと共にいて、私どもの言葉を聴きたがっていてくださいます。