イザヤ書第55章1-5節 ローマ第9章1-5節 マタイ第14章13-21節
今、ご一緒に聴いた出来事、「男だけで五千人」と言うのですから優に1万人は超えていたと思われる大群衆が、たった5つのパンと2匹の魚だけで養われ、満腹になったのです! しかも、食べ残しさえ生まれた――これは実に、大きな奇跡です。けれども、同時にこれは、小さな奇跡と言ってもよいかもしれません。というのは、この日の奇跡はこのときだけで、おそらく30分と経たないうちに、目の前にあった食べものは人びとの胃に消え失せてしまったのですから――。しかも、さらに半日もすれば、また同じ空腹感がやってくるのです。言ってみれば何も残らない、小さな奇跡でもあると思う。
何よりも他の多くの奇跡と違うのは、弟子たちがその奇跡に参加させていただいたことです。聖書は記す。「弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(19節)。
弟子たちは、1万人の人びとの中を歩き巡ったのです。ずっしりと重いパン屑が、その籠の中に一杯になったのです。12弟子たちは自分の手で、その重さの感触を、腕の中にいつまでも残しながら生きたに違いありません。あの日、この腕で、あのパン屑を集めて回った――と教会で繰り返し伝え、語りながら。
きわめて異常で、不可解な行為です。もしも、わたしだったら――主イエスにそのパンを差し出すことも、群衆の中を歩み出すことも、戸惑うに違いない。5つのパンがあればとりあえず、自分たちの空腹を養うことはできるのです。主の手に渡してしまったらば、自分たちの空腹さえ養えなくなるかもしれない。
群衆の中で配り始めます。もちろん1万人分のパンや魚を一度に手に持てるわけではありません。何度も何度も主イエスのもとへ戻らなくてはならないでしょう。けれど、配り始めると、するともうすぐになくなるのです。皆が大笑いするかもしれません。 “ほら見ろ、何も役に立たないじゃないか――”。弟子たちはそういう意味ではまことに現実的でありました。主イエスにはじめ、ちゃんと提案したのです(15節)。
けれど、主イエスは――「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」(16節)。
わたしは思います。主イエスには、とても会計担当役員を任せるわけにはいきません。だって、5つのパンと2匹の魚で、1万人以上を養おうとなさるのですから――。
けれども、主イエスに従うこの12人の弟子たちは、そのとき、風変わりな決断をする。弟子たちは、そのパンを、群衆に与え始めるのです。もしかしたら、無駄遣いにも思えるような中に、一歩を踏み出すのです。もしかしたら、“ほら見ろ…。言うことばかりは大きくて何にもできないじゃないか”と自分たちを笑うかもしれない群衆の中に、一歩を踏み出してゆく――。
主イエスに従う群れというのは、しばしばそういう風変わりな、不思議な決断を、このお方に促されてし続けるのです。愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! 主 イエスは、この神戸教会によってこの町を養おうとしておられるのです。5つのパンと2匹の魚をもって、私たちが今、手に持っているものをもって、この町の中を歩かせようとなさっておられるのです。
弟子たちは、主 イエスに促されるようにしてその1万人以上の群衆の中を歩み始めます。おそるおそる――すると、ほんとうに不思議なことですけれど、パンが、増え続けるのです。いったいそれがどうして起こったのか、さまざまな合理的解釈を試みるひともいますが、そんなことに聖書は関心がない。奇跡の説明をしようとはしないのです。ただ、はっきり書いてあるのは、弟子たちが3つのことをしたのだと。
持っていたものを、自分で食べずに、主イエスの手に渡すこと、そして主イエスがそれを祝福して裂くのを目にしながらもう一度受け取り直すこと。そして、少しの勇気をもって、群衆の中に、大群衆の中におずおずと歩み出して、それを配る。愚かかもしれません。そう――会計係としては、主イエスよりも、弟子たちのほうがずっと適していたかもしれない。けれども、主 イエスの愚かさに参加するときに、奇跡が起こるのです。奇跡を目にし――目にするだけではありません。この腕に、ずっしりとした〈手ごたえ〉を抱えながら、自分自身が、奇跡を味わい、参加することができるのです。主イエスはいつでも、私たちを小さな冒険の旅に誘おうとなさる方です。神さまというのはそういうお方です。
私たちは今日、聖餐の恵みに与りますが――神学校のとき教えられたことは、“この聖餐テーブルは食卓なのだ”ということでした。だから、聖餐卓の上にはパンとぶどう酒(主イエスのお体と血潮)だけを置く。“それが礼拝学としての考えである”と。ろうそくは、専用の燭火(設置)台に、献金も専用の献金台に、神学校礼拝では、聖餐のパンとぶどう酒、ろうそく、そして献金は、それぞれ別の定められたところに置いていたのです。それは、ひとつの形式だと思います。また、“なるほど”と思うところがある。
けれども、教会の長い伝統から言いますと―――わたし自身も、この度深く思い直したのですが――献金というのはやはり聖餐卓の上に置くものなのです。どうしてか。そのとき私どもはこう祈るからです。
私たちは、ここに私たち自身を、感謝と献身のしるしとしてあなたに献げます。
そして私どもが自分の身体を、こころを、精いっぱいの献金に託して献げるときに、主イエスはそれを持って、祝福して裂いてくださいましてもう一度私どもに差し戻してくださいます。ですから、この聖餐卓というのは棺の形をしているのです。
私どもが自分のためだけに生きようと思う命を幾度でも幾度でも、ここに差し出すのです。主イエスの命に重ねあわせるようにして私どもはここに自分の命を置く――。そしてそれを、主イエスは取りあげて裂いてくださいまして“もう一度生きよ…!”と私どもに差し戻してくださるのです。
ある、“牧師の牧師”のようなアメリカの神学者(ウィリアム・ウィリモン)が、こういうことを書いています。
牧師は、羊飼いとして教会員である羊の群れを養う。それはどうしてか――。羊が、満足するためか。いや、違う。羊飼いはなぜ羊を飼うのか――。神への献げものとするためだ…。
私はそれを読んで、慄然としました。けれども、“ああ、ほんとうにその通りだ…!”と思いました。
私たちが主 イエスに従って生きていく。それは、主イエスに私どもの命を、神に、私どもの小さな人生を用いていただくことを願うことです。ただ人生が長らえること、健康になることだけを祈るのではない。私たちは、主イエスに私どもの命を、差し出す。それが、私たちにとって、最もよい生き方だからです。
あと、私どもの命は何年残されているかわかりません。若い者であってもそうです。10年20年、あるいは60年70年がほんとうにあっという間に過ぎ去ってしまうことがあるということです。けれども、私どもはここに命をささげるのです。「主イエスよ、どうか、わたしの命を用いてください…!」
自分の命を、12人の仲間内のためだけではない一万人の、大群衆の中に私どもの命を用いてくださると主イエスはお約束くださる。そして私たちは、主イエスの手に、私どもの命をお預けするのです。主イエスは、それを受け取り、祝福して裂き、私どもにもう一度返してくださいます。そして私たちは、おずおずと、怖れながら、大群衆の中に、一歩を歩み出していくのです。
弟子たちは、そのパンを、群衆に与えた――。そのとき、必ず奇跡が起こるのです。