レビ記第19章1-2、15-18節 Ⅰテサロニケ第2章1-8節 マタイ第22章34-46節
律法全体と預言者(=旧・新約を含む聖書全66巻)は、この二つの掟に基づいている(40節)。
この“基づいている”という翻訳を、かつて用いられていた口語訳、最新の聖書協会共同訳は、“かかっている”と訳しています。“神を愛しなさい、隣人を愛しなさい”という、この二つの言葉に、聖書全体が基づいている・乗っかっているというよりは、かかっている!
この“かかっている”という言葉を、あるギリシア語の辞書は、それはたとえば扉がちょうつがいで、かかっている、二つか三つのちょうつがいで、扉がしっかりと柱に結びついている――たとえばそういうことだ、と説明をします。つまり、扉が、そのちょうつがいでしっかり繋がっていれば、扉がスムーズに開け閉めできるし、二つや三つのうち一つだけが生き残っていても何の意味も無い、とは言いませんけれどもほとんど意味がありません。ひとつが壊れるともう駄目。そうっと慎重に開け閉めをするってことになる。
「すべてを尽くして神を愛しなさい」「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。この、二つのことがしっかりしていればたちまち聖書全体がよくわかるようになるし、この、たとえその片方だけでも読み落とすようなことがあれば、何百回聖書を読んでも、結局、“いったい聖書は何を言っているんだかさっぱりわからん…”ということにしかならないだろう――。ここで主が言われているのは、そういうことです。
あなたの心全体で、あなたの精神全体で、あなたの思い全体で――(37節)それは要するに、あなたの全部が欲しい…! と、そう神が言っておられるということです。こころの半分でだけわたしを愛してけれども他のところはそっぽ向いているってんじゃ困る。浮気はゆるされない、ってことです。
あなたの神である主を、このわたしを愛しなさい。そっぽ向かないで、こっちを向いて欲しい…!
これは考えてみれば、恐ろしいほどに激しい、神のむき出しの言葉ではないでしょうか――。神の求愛(プロポーズ)の言葉です! 今、このわたしのためにも、そう言われるのです。
特に、旧約聖書を読みますと、しばしば出会う、際立った表現は、“神は妬む神である”(口語訳「ねたむ神」・聖書協会共同訳「妬む神」)という、表現です。愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! そうです! 神は妬むほどに私どもを愛しておられる。そうして、その神の想いは、主が十字架につけられようとするまさに、まさにそのとき、この、神の愛はますます、最も燃え上がりました。人びとは、けれども、神の愛にほかならない、この神の御子イエスを十字架につけ、その神の愛を、抹殺しようとしました。けれどもまさにその十字架にこそ神の愛は極まったのです。ここに聖書全体が根ざす、一点があるのです。
主イエスがここでなお続けて「第二も、これと同じように重要である」と言われたのは、「いちばん大事な神を愛することももちろん重要だけれども、そこで二番目のことを忘れちゃいけないよ」と、そういうことではないと思う。この二つの戒めは、主イエスにとっては二つでありながら、一つの戒めであった。二つ併せていちばん重要な戒めが、この二つの言葉であったのです。これらは分けることができない、と――。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません(ヨハネの手紙一 第4章20節)。
これはお気づきのように、まことに厳しい、言葉です。この場合の目に見える兄弟というのは言うまでもなく好きな人ではありません。目に見える兄弟、欠点が目についてしかたがない兄弟。そういうあなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい、というのは――その場合の“愛しなさい”というのは“好きになりなさい”というよりは、“赦しなさい”と言った方が、適切だろうと思います。愛することは、赦すことです。
自分自身を赦しているように、あなたの隣人を赦しなさい――と、そう言ってもいいのです。
私どもは、基本的に自分のことを、ゆるしているのではないかと、思います。自分にいろいろ欠点があったとしても、それでも自分のことは基本的にゆるしているのです。私どもは、人が見ていないと思えば、実はかなりでたらめなことを致します。それでもそういう自分のことをいろいろ理由をつけて、ゆるしているのです。けれどもひとたび人のことになると、少しのことでも赦せないと、そういう気持ちになるのです。
しかし、皆さんもお気づきだと思います。私どもは実はしばしば自分のことをもゆるすことができなくなる、そういうこともあるだろうと思います。自分で自分を赦せない、言い換えれば自分で自分のことを、受け容れることができない。目に見えるままの、あるがままの自分を受け容れることができない。そういう暗い想いが私どものこころを支配することがしばしばあります。そしてこれは多くのひとが体験的に知ることだと思いますが、そういうひとはそのためにかえってますます、人のことをも、赦すことができなくなります。隣人を赦すこと、受け容れることが難しくなります。だからこそ主が私どもにも言われるのです。
あなたは自分を赦しているだろう…!? そのようにあなたの隣人を赦しなさい――。わたしがあなたを愛しているんだから、ありのままのあなた自身を、赦しなさい。愛しなさい。そしてそれと同じように、あなたの、目に見えているままの、隣人を、愛するんだ。わたしはそのあなたの隣人を、愛している…!
「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」。このことについて、今日の第一の日課であったレビ記の第19章全体が、たいへん行き届いた、また興味深い叙述をしてくれていますから、皆さんもどうかそれぞれに、熟読玩味をしていただきたい(とりわけ9節以下、14節以下など)。この国の営みのことを考えても、あるいは我々一人ひとりの生活のことを考えても、このレビ記の言葉はきわめて具体的、まったく古くさくない、信じられないくらいの新しさを持って、今日こそ迫ってくると思います。
この、第19章のほとんどすべての段落の終わりに、「わたしは主である」「わたしが主である」と、そのように繰り返されます。“貧しいひとのことを思え……目の見えない者の前に、障害物を置いてはならない”。なぜかというと、「わたしは主である」。それ以外に理由はないんです。神は生きておられるから、もっと言えば、神を愛しているから、だから、目の見えない隣人をも軽んじないんです。
ここで、神を愛することと隣人を愛することとがひとつになっています。畑の収穫をするときにも、何をするときにも、「わたしは主である」という、神の愛が迫ってきます。
耳の聞こえない人の悪口を言うなんてことを、まさかしないと思っていても、そのひとには聞こえないから、とその場にいない人の悪口を言ってしまうことならいくらでもあるでしょう。けれどもそこに、「わたしは主である」「わたしが主である」という言葉が迫って来るときに――わたしを愛し、わたしに愛されることを求めておられる、神の愛の前に、私どもは立つのです。その神の想いを知るならば、私どもも、少しばかりであったとしても、神を愛し、隣人を愛する歩みを、初めることができるでしょう。
そのために与えられた聖書の言葉が、今ここにも新しく、私どものために、与えられているのです。神は今、ここにも、生きておられるのです。