いのちの流れ

出エジプト記  第17章1-7節   ローマ  第5章1-11節   ヨハネ  第4章5-42節

 今朝の福音である〈サマリアの井戸のほとりの女性と主イエスの対話〉。この、対話は、聖書のなかに記されている、最も美しい対話のひとつであると、代々の教会は語り継いできましたし、また私も、そう思っています。言うなれば、〈霊的な〉美しさ、信仰的な美しさに満ち満ちています。そして、この対話のすべては、「水を飲ませてください――」(7節)という、主イエスのひと言から始まりました。

 わたしは、改めて思うのです。主イエスが疲れておられた。肉体の渇きを、深く覚えておられた。これは、どんなに大きな慰めだろうかと――。わたしたちと共にいてくださる神、インマヌエルの神は、ひとの肉のつらさにおいて、肉体のつらさにおいても共にいてくださる この方は神の子なのだから、私たちが体験するような、そんな肉のつらさとは一切無縁だ、というのではないのです。まさに肉のつらさにおいて、私たちは神と共にあるのです。わたしはこれは、どんなに確かな慰めであろうか… と思う。

 太陽が中天に差し掛かる頃――ちょうどそこに、重い水がめを持ったサマリアの女性がやって来た。彼女もまた、額に汗をにじませながらやって来たかもしれない。年齢はいくつくらいであったのか。どんな顔立ちであったのか。そういうことについて、福音書は、何も書かない。伝えない。ただそのサマリアの女性に、主イエスは、極めて無造作に自由に、水を一杯、飲ませてほしい――」。かの女はびっくりした。

 あなたはユダヤ人でしょう…!? 私はサマリアのしかも女です。男の方から女に声をかけるだけでもはばかられるのに、あなたはどうして水を飲ませてほしいなどと頼むことがおできになるのですか――。ユダヤ人はサマリア人とは交際(=原意:器を共に用いる・同じ器で飲み食いすることは)しないのです。私たちは同じ器で飲むことなどはない。しかもあなたは汲むものをお持ちではないのだから、同じ器で、汲んだ水を飲まなければならない。器を共有するということは、それは自分と相手がこだわりなくひとつになる、という象徴的な行為でしょう。そんなことが考えられますか…!?

 当時、ユダヤ地方に住む人びとと、サマリアびととは、信仰的にも、そしてもともとは血のつながりがあったのですが、民族的にも、憎悪と差別を互いに投げつけあうような、厳しい対立の中にありました。いずれにせよ、かつては同じ民族・同胞であっただけに、一度対立するようになると、その間の溝はひどくなった。特にユダヤの人びとは、サマリアの人びとを軽蔑しておりました。全くそこにつき合いは無かった。

 「水を飲ませてくれ、とあなたは言う。けれど、普通なら何でもない言葉すら交わすことができないほどの敵意が、差別が、あなたがたユダヤ人と私たちサマリアの者たちとの間を隔てて来たではないですか。昨日今日の話ではないのです。それを、あなたは乗り越えてしまおうとなさるのですか――」。

 対話が、続きます。私は、今回改めて――というよりまるで初めて読んだかのように、この場面を想いながら、胸を打たれたのです。やって来た女性、立っています。主イエスは座っておられる。見上げている。偉そうにするのなら胸を張って見下さなければならないでしょう。しかし主イエスはそうではない。座ったままです。低いところから彼女の顔を見上げて、求めておられる。水を一杯、もらえないか――。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん 主イエスは、この女性を、愛する存在として、そのまなざしに捕らえておられるのです。もっとはっきり言えば、主イエスにとってこの女性は、既に身内です。多くのひとが集まる涼しい朝方ではなく、わざわざ人影が絶えた、炎天の真昼にたったひとりで水汲みにやって来た。訳ありであろうことはすぐわかる。多くを語らずとも、主イエスには、彼女のこころが伝わってくる。男女の壁、立場、民族の隔てを超えている、主イエスの愛が、既にこのひとを捕らえているのです。

 そして、このことは、決して偶然ではありません。4節の言葉です。「しかし、サマリアを通らねばならなかった」。ユダヤからガリラヤに行くのに――聖書の後ろについている地図で調べていただければよいと思いますが――サマリアを通らないルートはいくらもあるのです。しかし聖書はあえて、「通らねばならなかった」と。つまり福音書は、主イエスはサマリアで伝道しなければならなかった。これは神のこころであった――。こう、語っているのです。同じヨハネの第10章で、主イエスご自身がこう語っておられます。

 わたしには、この囲いに入っていない、ほかの羊もいる。その羊をも、導かなければならない(16節)。

 囲いに入っている羊とは、ユダヤ人のこと。「そのほかにも大勢、羊がいるのだ」。女性との出会いは偶然ではない。主イエスが捜しておられたのです。まだ囲いの外にいる、まだ囲いに入っていない失われた羊、失われたひとりを捜して――その末にサマリアの女性と出会った。「水を一杯、飲ませてほしい」。

 ひとの世の痛みを知る主イエスが、ご自身も肉のつらさを、渇きを深く、身に沁みて知っていてくださった主が、罪を抱き傷つき果てたひとりのひとを、招いておられる――。私たちの渇きのつらさの中に踏み込んでこられて、私たちのつらさの中に共に立っていてくださる――。十字架の上で成し遂げられた罪の赦しを与え、復活のいのちという、神の愛を、惜しみなく注いでゆくためです。

 そしてこの対話において、興味深いことに、いつのまにか主客転倒が起こっています。初めは、「水を飲ませてください」と主イエスが求めておられたのに――実はご自分の方が水を与える、と(14節)。

 わたしが与える水は、肉体を生かす、いのちであるより、霊のいのちを、とこしえに生かす泉であって、しかもこの水を与えられた人は自分自身が、泉になることができる。自分の、いのちの渇きが、満たされるだけではない――。これが、神の賜物、神が与えてくださる、いのちの水だ…

 女性を招くと同時に、いのちを約束する、み言葉です。それに続くかの女の言葉は、ひとつの信仰の告白です。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。

 この第4章は、洗礼の物語から始まっていましたけれども(1~2節)わたしは、洗礼を受けるというのは、こういうこころになることだと思います。洗礼もまた水を、用いる。その水は水道の水を汲んだだけであるかもしれません。しかしその水は、洗礼を受ける者に与えられる、永遠のいのちへとる水があることを、指し示すものでもあります。この水はもう汲まなくてもいい。渇きが止まってしまうからです。

 「その水をください…

 今、そのいのちの水に出会って、主イエスという生きた、いのちから、いのちの水を汲むことができる。これはもう、傍観者ではなくて、私ども自身が主イエスの対話の相手にされてしまったときに生まれる、こころからの、喜びの体験です。ただ、じいっと聞いているだけでなく、今はもう、自分も、この女性の傍らに、「わたしにもその水をください…」と叫ぶことができるようになる。この主イエスの女性との対話は、そのように、傍らに立って、耳をそばだて始めた私どもを引きずり込み、私どもをも対話の相手にしてくださる、まことに激しい力を、いのちの力をもった、対話であると、私は信じています。