出エジプト記第24章12-18節 Ⅱペトロ第1章16-21節 マタイ第17章1節~9節
きょうの福音は、“山上の変容(変貌)”と呼ばれます。そしてこの、主イエスの山の上での輝きは、30数年に及ぶといわれる主イエスの地上のご生涯において、ただ一度の出来事となりました。
実に不思議な出来事です。もちろん、神の子イエスのことですから、多少の不思議なことがあったとしても怪しむ必要はないかもしれませんが、やはり私どもを戸惑わせる、一読してすべてのひとがすぐ感動するような聖書の物語では、ないと思うのです。というのは、どんなに主イエスのお姿が光輝いたとしても、その輝きが、ただ輝いているだけだとすれば、わたしには一切、何の関係もないからです。
ここで主イエスのお姿が変わり、見たこともない輝きを見せたというときに、聖書がそこで伝えようとしていることは、“どうだ見たか! イエスさまっていうのはこんなにすごいんだぞ”というようなことではないのです。むしろ話は逆であって、本来は、このように輝いておられるはずのお方が、それなのに、その輝きが、一瞬にして消えた、という事実です。けれども、すべてが消えたわけではありませんでした(5節)。
ペテロはその光を何とかしてここに保とうと、願いましたが、その願いは、少なくともそのままには受け入れられませんでした。雲に包まれて、光は、消えたのです。けれども、そこに神の声が聞こえました。
これに聞け! このイエスの声に聞きなさい。他に何にもいらないんだ。あなたはこの人を見ればいい。あなたはこの人の声を聞けばいい。これこそ、わたしの愛する子、わたしの心に適う者なのだから・・・!
神が私どもに与えてくださる救いというのは、ちょっと光が輝いたり、その光を楽しむ、ということではないのです。辛いときは慰め、苦しいときは助けてもらえる、寂しいとき、一緒に傍にいてくれる、そういう救いも、もちろん、あるにはあるのですが――そういう光が輝いて、また消えるだけだったとしたら、何の意味もないではありませんか。けれども、神がわれわれに与えてくださる救いというのは、そうではなくて、どこにも望みが見えない、誰も助けてくれない、一緒にいてくれる人は誰もいない、すべての光は消えた・・・とそう思ったときに――けれども耳を澄まし、顔を上げてみると、イエスだけは、そこにおられる。これに聞け・・・! と、神の言葉が聞こえてくる。これに聞け、これに聞け・・・! と、光が消えた後で、そのような神の声が聞こえるのです。そして、主イエスご自身が近づき、御手を触れ、語りかけてくださる(8節)。
「起きなさい。恐れることはない」。その、主イエスが今も私どもと共にいてくださるのです。
ペトロが願った“仮小屋”(4節)とは、“幕屋(テント)”のことですが、430年間、エジプトの地で奴隷であり続けた神の民イスラエルが、〈出エジプト〉の後に、なお40年間、荒れ野で幕屋生活をしなければならなかった記事を想い起こします。そしてその40年間のテント生活で、神は御自分の民に、「あなたたちの住む幕屋だけではなく、主なる神であるわたしの幕屋をつくりなさい」と言われ、そこに、常夜灯を絶えず灯すことをお命じになったのです(出エジプト記 第27章21、22節、レビ記 第24章2節)。
「日暮れから、夜明けまで、その常夜灯を、決して消してはいけない・・・!」
40年間の荒れ野でのテント生活というのは、ほんとうに苛酷であったと思います。立派な町に住んでいるわけではない。城壁に囲まれているわけじゃない。強盗に、野獣に襲われたら、どうなるか――。けれどもそういう生活をしながら神の民は、自分たちのテントだけではなく、神の幕屋を建て、そこに灯火を灯しながら、“神も共に宿っていてくださるのだ”と、何度も確認しながらその旅路を続けました。夜中に不意に目を覚ましたときにも、“ああ、われわれは、闇に囲まれている”と思ったときにも、けれども消えることのない灯火が、燃え続けていた――。ペトロが願った幕屋というのはそういうイメージがあったと思う。
モーセとエリヤとは、どんなときも神は我々を見捨てることは決してない、という約束を想起させてくれる、旧約聖書を代表する重要な人物。この光の中にずっといるため、この光が消えることがないように、主よ、あなたの分も含めて仮小屋を三つ建てましょう――と。けれども、ペトロの見ていた光は、一瞬で消えました。顔を上げてみると、もう誰もいなかった――。けれども、イエスだけがそこにおられたのです。
あなたが幕屋を建てる、ましてあなたの手で、常夜灯を灯す必要なんかない。ここに、わたしの愛する子がいるじゃないか。これに聞きなさい。この人を見なさい。ほかに何にもいらないんだ! このイエスの言葉を聞けばよいのだ、と――。神は、そのみ子のお甦りをとおして、その、保証としてくださいました。
三人の弟子たちは、主の後に従って山を下ります。山を下りると、激しい発作に苦しむ息子を持つ父親の悩みがありました(14節以下)。そこにわたしは行かなければならないんだ。“さあ…山を下りよう!”
主は、言われるのです。そうです、主が山に登られたのは、山を、降りるためでありました。その山の下には、悩みがあり、闇があり、何よりも不信仰があり――。けれどもそれだけではありません。主イエスは山を下り、ついに十字架まで降りて行かれたのです。
けれども、ペトロたちが山の上で見たあの光は、空しい夢幻には終わりませんでした。主が、お甦りに、なったからです。そのお甦りの後にペトロは、何度でもあの山の上で見た確かな光を想い起こしながら、伝道に赴き、教会の仲間たちを、励まし続けました。そのペトロの言葉のひとつが、『ペトロの手紙二』という、小さな手紙に収められています(新約436ページ)。明らかにそこで彼は、あの山の上での出来事を想い起こしながら、教会の仲間たちを、励ましているのです。ペトロの手紙二、第1章16節以下。
わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
夜が明け、明けの明星が、あなたがたの心の中に昇るときまで――。
必ずそのときが来るんだ・・・! 我々は今、まだ闇の中にいるのかもしれません。けれどもその闇の只中に、主イエスは来てくださったのです。あなたも、あなたも、この光を仰ぐことができる! すべての光は消えたと思っても、顔を上げればそこに、み子主イエスがおられる。あるひとが、こういうことを言いました。
教会には、〈キリスト〉しか、与えられなかった。それ以外のものは、何も、与えられなかったんだ。あれがほしいこれもほしい、全部ほしいと言っている我々に、けれども、キリストだけが与えられたのだ・・・!
と、そう言うのです。
この人を見よ・・・! これに聞け・・・! そう言われる、神のみ声を、畏れと感謝をもって、受けとめ直したいと思います。そしてまさに、ここに、無限の望みが与えられていることを、確信させていただきたいと、願うのです。