エゼキエル第33章7-11節 ローマ第13章8-14節 マタイ第18章21-34節
マタイによる福音書第18章全体を通して、主イエスが何よりもこころをこめて伝え・お話しになったことは、〈ゆるし〉について。ゆるされた私たちが、神の子として、ゆるしながら生きていく、その生き方です。それは、「一緒にいること」です。それは、「一緒に生きること」です。「共に歩むこと」です。〈ゆるし〉。それは、「共に歩む道」です。正しいか、正しくないか。どっちが先に手を出したか――そういうことを言いながら身構えて相手を敵のように思うのではないのです。一緒に生きる。ゆるすのです。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。間違いなく、こう尋ねたペトロは七回が回数としては多く――三回まではゆるせ、という旧約の教えを超える――破格の回数であると考えたのでしょう。しかし、この思い切った数に対する主からのお褒めの言葉はありません。主はこうお答えになる。「七回どころか七の七十倍までも」(22節)。
わたしが私淑する、アメリカ聖公会の司祭(バーバラ・ブラウン・テイラー)が、ここで忘れられない説教をしているのです。わたしは、名説教だと思う。彼女は、ここで正直に言うのです。
もしもあなたがこれを真剣に受けとめるなら、きっと疲れ果ててしまうことでしょう。
そして、これがどんなに法外な主イエスの言葉か、それが分かるように、具体的な話を始めます。
たとえば、私たちが、友人とランチを一緒に食べる約束をします。自分の方は、遅れないようにと少し早めに出かけていく。車を停めるためにレストランの周りを五回も六回も廻り、ようやく駐車場を見つけ、ウエイターにお願いをしてとびきりの席をお願いする。そこで、席に着いて相手が来るのを待ち始める。そして、待ち、そして、待ち、そして、待ち――ようやく、これはすっぽかされたのだとわかって、支払いを済ませ、きっと何かが起こったのだと思って家に帰る。その日、夜になって、ようやく電話が友だちから入ります。
“ごめんごめん…。自分はなんて馬鹿なことをしたのだろう。手帳も携帯電話も家に置いてきてしまって、今の今までランチの約束のあることをすっかり忘れていた。ほんとうにごめんなさい…”。
それでいったん気持ちを沈めます。そして、もう一度会う約束をする。昼食の約束をたった一回忘れるくらい、何だというのでしょう。友だちだからです。そしてしばらく経ってその日が来て、また、同じことが起こる。また同じ電話がかかってきて、まったく同じことを言われたとしたら? ――さあ、あなたは三度目の約束をするだろうか、とこの司祭は問うのです。
しかも、主イエスは、この繰り返しを七の七十倍、もっと正確に言うと、あと四八八回耐えなさいとおっしゃっている。とんでもないことです! 私たち人間はそのようにはできていません。たった二度すっぽかされただけで疲れ果て、嫌になってしまいます。主は、そのように揺れ動く私たちに物語をお語りになるのです。自分が罪を犯されたときにどうしたらよいか、そのことをお語りになって、それを忘れないようにと、念入りにたとえ話をお語りになるのです。「家来たちに貸した金を決済しようとする王の物語」を。
この王は、几帳面に帳簿をつけ、会計係をおき、自分が貸し付けている相手のことを記録させ、支払いのできない者たちを牢に閉じ込めることまでできる王のようです。その決済の日、王はおそらくリストのいちばん上から始めたのでしょう。何しろ、最初に呼び出された家来には、とてつもない額の借金がありました――1万タラントン、と主は言われます――から(24節)。現代に直せば、おおよそ4800億円! です。
どうか、どうか待ってください。きっと全部お返しします…!
この家来はひれ伏し、必死にそう懇願しましたが、また僅かでも損失を食い止めたいためでしょう「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済しろ」と迫っている王自身も、それで負債をまかなえるはずもないこと、この家来がどう逆立ちしたって返すことができない額であることは、わかり切っています。
それはまことに荒唐無稽な約束です。いささか強引な設定ですが、時給1000円で1日12時間、しかも365日休みなく働いて――そのすべてを返済だけに充てても――この借金を返済するのに、どんなに少なくとも11万年! はかかるでしょう。もはや絶対不可能、と言わざるを得ない約束です。
けれども、王は、この家来がしきりに願う姿を、あわれに思って、彼をゆるしその借金を帳消しにしてやります。愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん…! この王は、正しさを求めたのではないのです。正しいことをするならば、ちゃんとお金を返す。あるいは、過ちを犯したならば牢に入る、それが正しいことでしょう。けれどもこの王は、自分の帳簿を破ってでもこの家来と一緒に生きていくことを選び取ったのです。一緒に歩んでいきたい…! と願ったのです。
ところがこの家来、赦されたにもかかわらず、自分に100デナリオン――つまり、約80万円――の借金をしている仲間を赦すことは、こころに思い浮かびもしなかったようです。その代わりに、彼は仲間の首を絞め、支払いを要求し、そして仲間が彼に向かって、彼が王に向かって言った同じ言葉を口にしたとき――「どうか待ってくれ。返すから…! 」――その仲間を牢に入れてしまったのです。
愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん…! 神は、私たちの罪に対して正義を立てることよりも、私たちと共に生きることを幾度でも幾度でも選び直してくださる方なのです! “一緒に生きたい”、“あなたと一緒に生きていきたい…!”と願っていてくださる。そのために、主イエス・キリストをくださった。ご自分の方が、傷を負うことをいとわなかったのです。そして繰り返し繰り返し私どもを迎え直していてくださる。
家来はこのことを考えなかったために、ついに牢へと投げ込まれてしまった。懲役11万年の刑、です。
先ほど紹介した、バーバラ・ブラウン・テイラーは、このように言う。“この、不届きな家来というのは、最後になって、牢獄に投げ込まれたのではない。すでにずっと、鉄格子のなかにいた。自分でつくった鉄格子のなかに住んでいた。自分がゆるされることを拒み、ゆるすことを拒んだ彼は、常に自分用の小さなアルカトラズ(=アメリカにある孤島の牢獄)をつくり、電卓片手に独居房に座り、会計帳簿をつけていた”。
主イエスが私どもに願っておられるのは、自由になること。私どもが、会計帳簿をつけながら、計算機を片手に自分の人生をあれこれ考えて、あのとき、あの人に傷つけられた、この人に傷つけられたと数え上げ、言い続けている限り私どもは鉄格子のなかに座っている。けれども、ゆるされている。ほんとうにゆるされているのです。神は、会計記録を棄て、電卓を棄て、鉄格子を開けて、私どもが自由に歩き回ることを望んでいてくださる。人を怖れずに…! そしてこの、大きなゆるしの世界の中を、私たちは生きる――。
そのとき、80万円を取り立てる。あるいはいつまでも返してくれないその80万円にこころを縛りつけられながら、小さな場所に生きる。それは、不自由な生き方です。主は、私どもを繰り返し解き放とうとしていてくださる。神の御子イエスが私たちのために死んでくださったのです! 11万年の労働賃金ではない。神ご自身が独り子を私たちのために降し、いのちを与えてくださった…。途方もないことです。
私ども教会は、そのゆるしの世界を映し出しながら、歩んで、行くのです。