わが主イエス、われを愛す

イザヤ 63章7~9節   ヘブライ2章10~18節  マタイ2章 13節~23節

 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。                                     

 降誕祭後の主日に、この第2日課( ヘブライ人への手紙第2章14節 )が読まれるのは、この言葉があるからでしょう。主イエス・キリストは、血と肉を備えてお生まれくださったのです。精神的な存在でなく、血を持ち、肉を持つ方として――。クリスマスの祝いで、私どもは幾度も、幼子主イエスが“布にくるまれて飼い葉桶に寝かされた”と聴きますが、興味深いことに、主イエスはただ飼い葉桶に寝かされたのではないのです。“布にくるまれて”飼い葉桶に寝かされた――。あるひとはこの“布にくるまれて”というところを“おむつに巻かれて”と訳します。そう訳せることばのようなのです。なるほど、昔のことです。小さな赤ちゃんが生まれればそれを布に包む。そして赤ちゃんが用を足せば、その布ごと取り替えるのです。なるほどその布を、おむつと訳すことも無理はない。わたしは、思う。主イエスというお方は、おむつにくるまれてお生まれになった…。

 おむつ。とても辛いものだと思う。特に年を重ねてからは。小さな子どもだってそうです。おむつにくるまれて喜んでいる子ども、あまりいないかもしれない。私も、25年ほど前に、整形外科で二度目の大きな足の手術をして、両の足首から太ももの上まで石膏のギブスを巻き、特に術後の1週間から10日ほど、昼夜、ほんとうに激痛と戦っていましたから、眠れませんし、ましてトイレに移動するなどできない。大人用のおむつをして、看護師さんは仕事ですから嫌な顔もせず取り替えてくれますけれども、しかし、激しい痛みの中でも恥ずかしい思いは、ありました。――けれども、わたしたちの主イエスは、血と肉とを備えて、私どもが味わうような、人生のスタートを切ってくださった。

 そしてこの主イエス・キリストのことを、〈彼らの救いの創始者〉。10節でそのように言います。“主イエスこそ、救いの創始者だ…

 この、〈創始者〉という文字は、とてもすばらしい文字なのです。ギリシャ語で、〈アルケーボス〉、そういう文字が使われている。〈アルケー〉。これが、“始まり”あるいは“元”。そういう言葉が〈アルケー〉という文字なものですから、ここでは創始者と訳したようです。けれどももう一つ別の訳し方がある。それは、〈代表戦士〉と訳せるのです。代表戦士。おそらくヘブライ書を読んだ最初のひとたちはアルケーボスという言葉を聴いてすぐに思い起こしたことがある。それは、代表戦士の戦いです。あの、ダビデとゴリアト(ゴリアテ)の戦いです。旧約聖書のサムエル記上 第17章が伝えている戦いです。

 ダビデという小さな子どもが、お兄さんたちが戦っている場所にお弁当を持って行くと。お兄さんたちはみんな恐れている。そこには、当時イスラエルが闘っていたペリシテという国の代表選手がいた。それがゴリアトです。屈強な大巨人を前に、到底勝てる者がいないのです。

 そこで、少年ダビデが飛び出て行き、石投げ器で石をクルクルと回しながら“ヒュッ”と投げた――。そうすると大きなゴリアトを倒すことができた。そういう物語です。子どもたちが大好きな物語です。これが代表戦士の戦いです。イスラエルとペリシテ、全員で戦わないのです。そうしたら被害が大きすぎる。そこで、それぞれが代表を出すのです。それが代表選手の戦いです。

 小さな、ダビデが、大きなゴリアトを倒してしまった――。主イエス・キリストが来てくださったっていうのはそういうことなのです。私たちの代表選手として来てくださった。私たちが、陰で、大きな敵の前で、ぶるぶるぶるぶる震えていなければならない。そういう中に主イエスが飛び出て行ってくださった… そして大きな悪魔を、死という敵を滅ぼしてくださった。代表選手が強いならば、他のものは弱くても大丈夫です。他のものがどうであるかは関係ない。代表選手一人が強ければ私たちは勝つのです。

 説教の前に、教団讃美歌の〈主われを愛す〉を歌いした。愛唱讃美歌にしている方も多いでしょう。

主 われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。

 キリスト者で、ミッションスクールの国語の先生が、こんなことを書いておられるのを、感銘をもって読んだことがあります。古典の文法を教える授業の中で最もよく活躍するのが、この讃美歌の461番なのだそうです。「主 われを愛す。主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ

 “主は強ければ”の「ば」。この活用を、生徒たちの多くはこう訳すのだそうです。「主が強かったなら」と、仮定形で訳す。「主が強かったならば、私が弱くても恐れはない」。けれどそれは間違っている。正解は、〈主は強いので〉という確定の訳だ。そしてこう説明するというのです。「主がもしも強かったら、などという不確かな存在では、困ってしまいますよね」。そう話すと、生徒たちも「確かに…」と納得してくれると。

しかし、私どもは時々、主の強さを疑うことがあるのではないでしょうか。〈主われを愛す。主は強ければ〉。その歌詞自体も〈もしも主が強くいてくださるのならば〉仮定で訳してしまう。違います。主イエスは強いのです。主イエスは強くいてくださるのです。主イエスは勝利者でいてくださいます。主イエスは代表戦士でいてくださる。ですからこの創始者、あるいは代表戦士と訳される言葉は、ある英語の聖書では、“チャンピオン”と訳すのです。主イエス・キリストはチャンピオンだ。私たちを助けてくださるチャンピオンだ… 決して負けないチャンピオンなのです。

 もしもこの主イエスが、16節にあるように、「イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられる」。もし、天使をお助けになるのであれば、主イエスはきれいな、もっと美しい戦いをなさったに違いない。けれど、主イエスはアブラハムの子孫――。私ども人間をお助けになるために来たのです。だから、おむつさえおつけになった。だから、十字架を背負われたのです。だから、泣きわめかれたのです。嘆かれたのです。苦しんだのです。痛みにのた打ち回ったのです。人びとの、あわれさに、このはらわたがよじれるような苦しみを味わわれたのです。そしてそのお方が、勝利してくださった。私どもを、死の力から取り戻してくださった。その時、私どもにとって死の意味は変わります。

 私どものこの肉体は、やがて死ぬでしょう。私どもは、死によって悲しい別れを味わわなければならないでしょう。死ぬときは、痛いかもしれない。苦しいかもしれない…。けれども、それ以上のことではない

 私どもの、チャンピオン、代表選手、勝利者主イエス・キリストが私どものために来てくださって、あの、生々しく、泥臭い、血なまぐさい試練そのものである死を戦い抜いてくださった。そのために主イエス・キリストが来てくださったのです。私どもは、ただその後を歩く――。共に歌をうたいながら、主イエスのあとに続いて歩くのです。

主われを愛す。主は、強いので、われ弱くとも、恐れはあらじ――。