使徒 第2章14a、36-41節    Ⅰペトロ 第1章17-23節    ルカ 第24章13-35節

 もう、ずいぶん前のことになりますけれども――ある、教会の方が、死を覚悟しなければならないほどの大きな手術をすることになり、それに先立ち、わたしが病室を訪ねて祈りに赴いたことがありました。実はそれが、その方との初対面で、赴任したばかりであったので、どういう聖書の言葉を届けようか…と思いながら、どの聖書の言葉を読んだのか、正直に言って記憶がありません。聖書を読んで、祈りをしようとしたら…その方が、初対面であるわたしに、いきなりこう言われました。

 先生、エマオのところを読んでくださいませんか――。

 明日、手術を受けて、もしかしたらそのまま目を覚ますことは、ないかもしれない。

 先生、エマオのところを読んでくださいませんか――。

 今に至るまで、忘れることのできないやり取りになりました。

 今日のところで、何と言っても多くのひとがこころに刻んで参りましたのが、29節の言葉です。

 一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから

 この二人の願いは、すべてのひとの祈りになりました。

 主よ、一緒にお泊まりください。主イエスよどうか、私と一緒にいてください。

 たとえば大きな手術を前にして、死を覚悟しなければならないかと、思うひとの祈りにも、なったのです

 一緒にお泊まりください。主よ、一緒にいてください…

 先ほど、教団讃美歌の39番を歌いました。この二人が、もともとは何気なく口にしたこの願いを、まことに美しく歌い上げたものです。〈主よ、ともに宿りませ。主よ、ともに宿りませ〉と――。

 この讃美歌は、〈夕〉の讃美歌に分類されていますけれども、2節の初めでは、〈人生(いのち)の暮れ近づき〉などと言います。明らかに、人生の夜の暗さです。死を想う人の暗さです。“けれども、主イエスよ…あなたが一緒にいてくださるならば…” その望みを歌う讃美歌です。しかし私どもが主イエスに、“一緒にいていただきたい”と願うのは、夜だけではないでしょう。人生の終わりだけでも、ないのです。若いひとも、年を重ねた者も等しく、このお方を愛するのです。“主よ、あなたに一緒にいていただきたいのです。主イエスよ、私は、あなたといたいのです“。

 いや事実、主イエスは私どもと共にいてくださる。一緒に歩んでくださる。私どもが主を愛したのではなく、まず主イエスが私どもを愛してくださったのです ここに出てくる、二人の弟子がその事実に気づいていなくても、その事実に、揺らぐところはひとつもなかった。しかし、今朝の出来事の中で、ひとつ、実は不思議なことは、この二人は〈暗い顔をしていた/17節〉とありますけれども、なぜ暗い顔をしていたのか――。そんなこと言うまでもないではないか、すべての望みをかけて従ってきたイエスという方が、十字架刑という、人類史上もっとも残酷な刑に処された――それはもう顔も暗くなるだろうと、思いますけれども、しかし、もし主イエスの死に絶望してエマオに帰ったというのであれば、主イエスが死んだ金曜日のうちにさっさと帰ってもよかったはずです。けれどもそうではなくて、むしろ福音書記者ルカの書き方からすると、主イエスの復活の報せを聴いたがために、この二人の顔は暗くなっていた。

 主イエスとの対話の中で、この二人は、今日に至るまで私どもが信じ受け容れているキリスト復活信仰を、見事に言い表してくれています(22-24節)。どこにも間違ったところはありません。しかし、その二人は、主はおよみがえりになったのだ、墓は空になったのだ、というこの事実を、これはたいへん不思議なことですけれども、〈暗い顔でしか〉語ることができなかったのだというのです。

 それはなぜか――わたしは、むしろルカは、まさにここに私どもの生活を見ていたのではないかと思います。主の日の礼拝のたびに、主イエスがお甦りになったと聞かされて、毎日の生活においても、いつも主イエスが一緒におられるということを、どこかで感じ取りながら、

 それがどうした… だって見えないじゃないか…なんて思いさえ、生まれてくるものです。性懲りもなく、およみがえりになった主イエスと共に、暗い顔をして生きてしまう。それが私どもの生活の、真相だと思います。キリストを信じ、洗礼を受けたらずっとハッピーな顔つきで生きることができるのか、そんな呑気なことを考えるひとは、どこにもおりません。私どもの人生は、紆余曲折に満ち充ちているのですから――。

 暗い顔をしている私どものために、主イエスが、何度も何度も繰り返し、どんなに深くこころを砕いて語りかけてくださることか。そこで主イエスが何をなさったかというと、これはしかしたいへん単純なことであった。「聖書を読みなさい…」 こう言われたのです(27節)。この、「モーセとすべての預言者から始めて」というのは創世記から預言書に到るまで旧約聖書全体を説き明かしてくださったということです。

 ここにも、ルカの信仰が反映されていると思います。この福音書を書いたルカ自身、主イエスに直接、お目にかかったことはなかったのです。けれども、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じることができるようになりました(ペトロの手紙一 第1章8節)。――神の御業を語る、神のご意思、もっと言えば、神の愛を明らかにする書物である、聖書を読んだからです。

 主イエスを肉眼で見たからと言って、神のご意思が分かるとは限りません。言い換えれば、主イエス・キリストを肉眼で観察することによって私どもの暗い顔が、明るくなるとは限らないということです。そうではなくて、聖書を読みなさい… 神の想いを、もう一度聴き、学び直しなさい…

 今、わたしがあなたと一緒にいる。それは、神のご意思、神の愛が明らかにされ、貫かれた出来事なのだ。そのことが分かるか。この神の想いが分かるか。どうか、聖書の語るところに、こころを開いてほしい。

 この二人の弟子たちは、エマオまでの道のりを、主イエスの聖書の説き明かしを聞きながら、歩むことができました。その言葉を聞いていると、不思議と、彼らのこころは熱くなってきたといいます。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。

 燃え始めたときには、気づかないほどの、後から振り返って初めて気づくほどの、静かな、しかし、たしかなこころの燃焼でした。あの時燃え始めた炎が、いまも自分の魂を自分のからだまでも、あたたかく、暖め続けている――。その時すでに、この二人の顔が明るくなっていたことは明らかです。

 ルカは、私どもにもこころを込めて語りたかったと信じます。

 あなたのこころも燃えるのだ。あなたの顔も明るくなるのだ。主イエスが、あなたのこころを、燃やしてくださるのだ… そのこころの燃え方は、主イエスは生きておられるという事実を、誰かに告げないわけにはいかない、そういう、燃え方でしかなかったのです。そのために与えられた、聖書です。

 そのようなご意思をもって、私どもを遣わしてくださるのです。そのために今も、主イエスが私どもと共に歩み、聖書を説き明かしてくださる。ここに、私どもの、私どもと共に歩んでくださる、主イエスのご意思があり、この主の愛に生かされている、私どもの物語が、ここに、あるのです。