主イエスに呼ばれて

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 今日のマタイによる福音、第4章16節以下を聖書のもとの文字、ギリシャ語で読みますと、実に味わい深い味わいがある。わたしなりに訳すとこうです。

そして 歩いた ガリラヤ湖のほとりを  

見た シモンとシモンの兄弟アンデレを――。

 「歩いた」、「見た」という文字が先頭に来るのです。歩く、見る――。それが強調されるように記されている。歩いた、ガリラヤ湖のほとりを――。

 主イエスは、乗り物にお乗りになることはありませんでした。馬車に乗ることも馬に乗ることもなさいませんでした。唯一の例外は、エルサレム入城のときに子驢馬に乗られたれたことが記されているだけです。しかしそれも、ごく僅か、短い距離でした。主イエスは歩かれたのです。

 主イエスは走ることもなさいませんでした。少なくとも、“イエスが走った”と福音書に記されることはありません。主イエスはいつも、御自分の足で歩かれたのです。ゆっくりゆっくりと歩かれた。その歩みが、そこに始まります。

 時は早朝のことでしょう。漁師たちは舟の中で網の手入れをしていたのですから。魚の漁は夜中から早朝の労働です。漁を終えた後に網の手入れをする。すると、朝靄の中、ゆっくりゆっくりと近づいて来る、主イエスのお姿が見えるようです。いいえ、主イエスの足音さえ聞こえて来るようです。

歩いた ガリラヤ湖のほとりを。そして、見た シモンとアンデレを。

 これもまた、主イエスの眼差しが思い浮かぶようです。「見る」――。これは「深く御覧になる」という字が使われています。じっと御覧になる。――そういう文字です。

 「見た シモンとアンデレを」。シモンとアンデレをじぃっと見つめながら、ゆっくりゆっくりと、この二人のもとへと歩んで来られる主イエスのお姿です。

 子どもの頃、理科の授業で、宇宙の広さを学びました。星の距離を測るのに、何光年と言うように、光の進む距離を用いることを始めて知ったのはその時でした。不思議な気分がしました。今、見えている星の光は、何年も、いいえ、何億年も前に放たれた光、何億光年も離れているというのです。何年も前、何億光年も前から、既に光が放たれていて、この私に向かってやって来ている。これわたしにとっては、大きな発見でした。布団に入って、それでも、見えなくなった星がまだ自分を見ているような不思議な気分がした。――見た、シモンとアンデレを

 何時から主エスはこの男たちを御覧になっていたのでしょう。福音書は私どもの物語でもあります。いったい何時から主イエスは、私どもを御覧になっていたのでしょう。彼らも私どもも、働くことで精一杯です。毎日のことで精一杯です。手元のことで精一杯です。けれども、彼らが気づく前、私どもが気づくよりも遥か昔から、主イエスは目を留めていてくださる。そして、こちらへ、こちらへと歩いて来てくださる。

 歩いた、ガリラヤ湖のほとりを 見た、シモンとシモンの兄弟アンデレを。――お気づきになると思います。主イエスは、あらゆる働きよりも先に、最初に弟子たちをお召しになったのです。主イエスの働きを見て弟子たちがついて行ったというのではない。順番は逆です。弟子たちにとって主イエスが必要だったのではない。主イエスの方が、弟子たちを必要としておられたのです

 「わたしについて来なさい」(19節)。すると、4人の男たちは、すぐに網を棄てて従った――。この事実、それ以外のことについて、福音書記者マタイは、一切関心を払っておりません。

 何よりもマタイ自身がそうです。かれ自身は、自らの召命の出来事、その証しを、目立たないかたちで、そっとこの福音書に忍び込ませています。第9章の9節以下――『イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った』。――。主イエスを家に招き皆で食事をしていた、というのはその後日談であり(10節以下)、マタイが証しをした時に言ったことはただこれだけなのです。

主イエスが、通りがかりに、収税所に座っている自分をじぃっと御覧になった。そして、「わたしに従いなさい」と声をかけてくださった。だから私は主イエスに従った――」。

 それだけです。わたしは、これはたいへん興味深いことだと思います。この福音書を記したマタイ自身もまた、自分のことをひと言も語らないのです。語るのはたった一つ、「自分は収税所に座っていた」、それだけです。大切なのは、動機ではない。「呼ばれて、従う」それだけです。

 この4人の男たちは、職業を棄て、家族を棄てて主イエスに従いました。私ども、一人ひとりに求められること、主イエスは、私どもすべてに、職業を棄てなさい、家族を棄てなさいと命じているわけでは決してないとわたしは思う。けれど、ただいつの間にか私どもは、おかしな職業を身につけてしまうことがある。悲しむことが職業になります。苦しむことが職業になります。いつでも不安でいることが職業になる。威張っていることが職業になったり、怒っていること、自慢をしていることが職業になったり――。何だか訳の分からない職業の中に、気をつけているのに、時折縛られます。「わたしについて来なさい」。その私どもに向かって、主イエスは呼びかけるのです。その主イエスに従う。自分の動機を整えるのではない。

 「ついて来なさい」と主イエスはおっしゃいました。主イエスはこの後どこを歩まれるのか――。福音書を読み進めて行くと、それはどこか別の世界ではありません。私どもの毎日の生活の場所と言ってよいかもしれない。そこには、自分の力ではどうしようもない痛み苦しみに悩まされる者がいます。家で休み、あるいは寝ている家族がいます。病を抱える友がいます。あるいはマタイ自身のように、収税所に座っている、仕事真っ盛りの者もいる。第一線は退き、第二、第三の人生を歩んでいる者もいる――。主イエスは、「わたしについて来なさい」と語りかけられ、そのような私どもの生活の真ん中を歩いて行かれる。

 この後 福音書を読み進めて行きますと、興味深いことに、所どころ、しかも大事なところに――決して回数が多いわけではないけれども――「一行」という言葉が出てきます(たとえば、第14章34節、第17章22節)。この後にもしばしば、「一行」という言葉が出てくる。わたしが思い出すのは、旅行した時などに、小さな宿に「〇〇様ご一行」、そういう看板が迎えてくれることです。私どももそうです。「主イエスの一行」として歩く―― どうぞ、家に帰ったら表札を見ていただきたい。もしかするとそこに、「主イエス一行の家」と書いてあるかもしれない。入院することがあっても、自分の病室の入り口のところに、もしかすると「主イエス一行の病室」と書いてあるかもしれません。ひとりの部屋でも構わない。私どもが眠るのは、一人で休むのではないのです。主イエスの一行として眠る。私どもはどこに行きますにも、もう一人じゃありません。主イエスが一緒に歩いていてくださる。わたしたちの前を歩んでいてくださいます。そして、主イエスの喜びは拡がる。主イエスの物語は続くのです。

 あなたが、小さな、シモンになることができる。あなたが、小さな、アンデレになることができるのです。主イエスはおっしゃいます。――わたしについて来なさい。