サムエル上第16章1-13節 エフェソ第5章8-14節 ヨハネ第9章1-41節(27-41節)
古代の神学者であり、説教者であった、アクグスティヌスは、27節のところを、「あなたがたもそうなりたいのか」と訳しています。「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」(新共同訳)を、ただ単純に、「そうなりたいのか」と訳しているのですが、アウグスティヌスは、この、目が見えるようになった男の言葉を、敷衍、パラフレーズして、その心持ちを、少し丁寧に、文章化して説き明かして見せているのです。
あなたがたもそうなりたい、あの方の弟子になりたいのですか。今、既にわたしは見えるのだけれども、横目で睨みつけてはいない――。
これは、とても興味深いアウグスティヌスの理解です。つまり、ここで、この男を、少しも理解しないで依然として攻め立てているユダヤ人は、“目つきがおかしい”って言うのです。横目で睨みつけるようなことをしている。横目で睨みつけるのは何を見ているかというと、主イエスを横目で見ている。あるいは主イエスによって、この男が癒されたという事実を、横目で見ている。横目で見ているっていうのは正面から見ないということです。もちろんこの男は、わたしは、正面から見ている…! (25節/「今は見える!」)。
当の本人にとっては、主イエスは、わたしの目を開けてくださった方なのだ! ただそれが大事なのだと、問われるままに、段々だんだん、ハッキリとものを言うようになり、そして、ここでは、実に、明快です。断固としています。ひるんでいません。「あなたがたは横目で、主イエスを、わたしを、そして主イエスとわたしとの間に起こった出来事を、睨みつけているでしょう。わたしは違う! わたしの身に起こった出来事を、神の救いを、まっすぐにただ見つめている…!」と。けれども、最終的にファリサイ派たちは、「彼を外に追い出した」(34節)。――そうして、「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会った」(35節)。ここは、ある外国語の翻訳では、「彼を、見つけてくださった」と訳されています。彼を、見つけてくださったのです! 主イエスが、この人を発見してくださった。“ああ…お前はここにいたか。疲れたろう…よく闘った”と、労ってくださったかもしれませんけれども、福音書が書いている言葉は、そういう主イエスのお言葉ではなくて、「あなたは人の子を信じるか」という問いです。あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ。わたしだよ、と――救い主として名乗りを上げていてくださる。
彼は、“主よ、信じます”といってひざまずいた(38節)。礼拝したのです。ひれ伏したのです。主イエスを見るということ、主イエスを知るということは、ひざまずくこと、ひれ伏すことでもあります。ただ、このところで、主イエスは、この男の“信じます”という信仰を喜んで受け入れてくださると同時に、それともちろん無関係ではなくて、こう言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(39節)。
この不思議な言葉を、そばにいて聞いていたユダヤ人、しかもユダヤ人の中でも代表的な、信仰熱心なファリサイ派の人たちがいて、それを、それこそ、横目で睨みながら見ていたのでしょう。耳も開いていた、聞きとがめたんです。横目でじぃっと睨みつけているような人は、その耳も聞きとがめる、耳なんです。その意味で敏感なのです。「我々も見えないと言うことか」。「見えない・見えるということを裁くんだ」と、そういうふうに主イエスが言われた言葉を聞いて、「我々が目が見えないと裁くのか」と、問うた――。主イエスは言われました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(41節)。これは、よく味わうべき、みことばです。
もう一度、39節のみ言葉に戻って考えてみますと、「わたしがこの世に来たのは裁くためだ」。
「裁く」。この言葉は、もともとは、物を“分ける”という意味です。たとえば、何か果物の収穫時期になりますと、産地の人びとがそれを取り入れて、選別する。実に見事に、その果物の等級分けをする。これは高く売れる、これは、売れても安いだろう。これは、市場に出すことができないほど、小さかったり不格好だから自分たちで持って帰って食べる――。そのようにして、分けるんです。
そこから、人間を分けるといったときに人間について判断をする。特に、このひとはよいことをしているこのひとは悪いことをしたといって裁く。悪い者を、罪をおかしていない者から区別する――。それが裁くっていうことです。だから裁判官は、被告・訴えられている人が罪をおかした人間に数えられるのかそうでないのか。それをはっきり区別するために、特別な神経を使わなければならない。
ところが主イエスは、ここで「裁く」と言われながら、見えない者はだれか、見える者はだれかっていうことを見分け・区別する裁きをする、とはおっしゃらなかった。「見えなかったのであれば罪はなかった」と(41節)。ただ見える・見えないの問題じゃないんです。ファリサイ派の人びとが、ただ見えなかっていう事実があるだけでなくて、見えないのに見えると言い張って、罪は、そのように明らかになるというのです。ただ見えないことは悪いことじゃないんです。見えなければ見えないってことを認めればいいのです。
ファリサイ派の人たちというのは、世間の考え方から言ったら、悪い人たちじゃありません。憎しみのわざに、本来駆けずり回っているような人たちでは、なかったはずなのです。とても本気で、誠実に人生を生きようとしていた人たちなのです。しかし、主イエスからご覧になると、まさにそこに問題があった。
わたしたちは神がモーセに語られたことをよく知っている。その掟どおりに生きている。わたしには、モーセの掟は見えている。その掟に従わないと、従わない行いっていうものもすぐ見分ける。まさにファリサイ派は、裁く人びと――。人を裁くことができるように、自分たちは見えている、とファリサイ派たちは言う。
見えない者は見えるようになり、見える者は、見えないようになる――(39節)。主イエスの裁きの特質が、ここに、はっきり語られています。見えない者が見えるようになる。この男がそうだ…!
まだそばにいて、主イエスとファリサイ派との論争を、じぃっと見守っていたかもしれないこの男を指さしながら、このひとは見えないものが見えるようになったろう。そのようにわたしの裁きに与った。
裁くっていうことはただ、黒いものを黒、と言うのではない。白いものを白って言うわけじゃない。黒ければ、罪に汚れている者であるならばそれを白くする。そして、白い白いと自分では言い張っているけれども、実は罪で汚れている者を、これは、罪なのだ、ということを明らかにする。ゆえに、ここで語られる主イエスの裁きは、まことに厳しい裁きであると同時に、既に救いであることに気づきます。ファリサイ派の人びとも、実はその救いに招かれているんです。
見えるというのを、よしなさい――。わたしは見えていなかったのだ。愛のまなざしをもっていなかった。正義のまなざしをもっていなかったのだ。愛も義も見えていないってことを認めなさい。そうすれば、あなたがた見えない者も見えるようになる!
ここでは、ファリサイ派も、この男も区別はない。皆、主イエスの前に立てば、見えないのです。それが、見える者に変えられる! ここに、主の裁きの、恵みがあります。
どうぞ私どものこころの、目を、霊の目を、はっきり、見える目としてください。見えていないのだということを、深く、悔い改めることから、見える者へと、変わる道が、始まりますように。主の恵みを心から祈り願います。主のみ名によって祈ります。