列王記上第19章9-18節 ローマ第10章5-15節 マタイ第14章22-33節
今日の、第2の日課であるローマの信徒への手紙の第10章15節、原文を意訳せず日本語にそのまま置き換えると、「何と美しいことか、福音を説教する者たち(=私たち)の足は――」となる。
この手紙を書いたパウロはいつでも、「わたし」ではなく。「わたしたち」と言いました。彼は、独りで伝道を、牧会を、説教をしたのではないのです。たとえ置かれた場所は遠く離れていても、常にチームで動き、働いた。教会の働きをするのは、パウロ一人のことだけではなかったからです。――わたしたち。
パウロはここで、皆さんひとり、一人が、“その美しさに気づいてほしい”と語りかけているのです。“良い知らせ(=福音)を伝える(=説教する)わたしたち自身の美しさに気づいてほしい…!”と――。
愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! 教会に集い・連なる者は皆、伝道者・説教者になるのです。礼拝から帰って、たとえば家族に“今日は何を聴いたの…?”と、あるいは友人たちに“なぜあなたは教会に行っているの”と尋ねられる。そのとき皆さんもまた、こころ動かされ・揺さぶられながら、こう応えるのです。「何と美しいことか! 福音を説教する者たち(=私たち)の足は――と聴いたのだ」。
この「美しい」という言葉について、ひとつ、たいへん印象深く想い起こす場面は、マルコ福音書第14章3節以下です。主の十字架が迫った頃、食卓を囲んでいると、そこにひとりの女性がひじょうに高価な香油を携えやって来て、それを割り、主イエスの頭にすべて注ぎかけてしまった、と。弟子たちは憤慨する。
売れば300万円以上になる香油を、なぜ一度で使い切ってしまうような無駄なことをするのか――。経済観念、効率から言って正しいかもしれない。しかし主イエスはおっしゃった。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いこと(=美しいこと)をしてくれたのだ」(第14章6節)。
良い、悪いというのではない。正しいか、間違っているかということでもないのです。私たちの世界はいつでもそうです。良いか、悪いか、正しいか、間違っているか。しかも、正しいと言い張る方は、逆もまた正しいと思い込んでいる。正しさが正しさとぶつかり合いながら、時に、しばしば私たちは醜い世界をつくりだしてしまいます。――けれども主イエスは、この女性の行いに、美しいものを見た。
私どもの時代、それぞれの社会の中で、正しいか間違っているかということで議論する中、私どもだって時に、声を荒げながら、正しいか間違っているかという議論の中に、本意でないにもかかわらず、加わらなければならないことがあるかもしれない。けれども、主イエス・キリストはもう一つのこころを私どもにいつでも与えてくださる。それは、美しいこころです。美しい生き方です。その、美しさ、私たちの美しさがもっとも顕著に現れるのは――パウロが語る限りは、足です。“足が美しい…!”と言うのです。
この、第10章の15節は、旧約のイザヤ書、第52章7節から引用されている聖句です(参照)。
当時、戦争のニュースを伝えるのは、伝令でした。自分の夫や息子を、あるいは自分の家族・親族、友を戦地へと送り出す。あの山々の向こうでは今何が起こっているのか――。するとやがてその見張りが、遠くから走ってくる人影を見つけるのです。遠くの山の峰に立ち、こちらに向かって大声で叫ぶ伝令を。
喜びの知らせを携えて走ってくるのです。体は、汗びっしょりかもしれません。足は、泥と埃まみれになっているかもしれない。もしかすると、一所懸命走るあまりに、足にはマメができ、爪もけずれて、血がにじんでいたかもしれない。けれども、それを、“美しい…!”と呼ぶのです。
キリスト者――それは、神さまのもとからの伝令として生きる者です。多くのひとたちが、山のこちら側で暮らしており、向こう側で起こっていることを知りません。その末に結局、いつの間にか待つことさえ忘れてしまって、よほど注意しなければ、テレビや、新聞や、インターネットで得た情報などの目に見えるもの、耳で聞いていることがすべての世界だと、思い込んでしまいかねないのです。
けれども、そこに山の向こう側から走ってくる者たちがいるのです。平和を告げるのです。
もう、争いは終わった――。憎しみ合う必要は、もう、自らの罪、過ちを恐れて隠す必要もない。ゆるしが来た…! 神の愛が訪れた。「彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げる」と預言者イザヤは言う(第52章7節)。その彼、主イエス・キリストの到来(誕生)と共に、もう、私たちは、目にすること耳にすることがすべてだと思い込まなくてよい。あるいは5年、10年、30年50年の暗闇の時代におびえなくてよい。主イエスの到来と共に、新しい時代が、愛と、平和がこの世に満ちる時が来た…!
あるひとが、“プライマル・リアリティ”――日本語にするのが難しいのですが――“プライマル(=第一の、根本の、最大の)リアリティ(現実)”というのはいったいどこにあるのか、と問いました。そして、こう続ける。“――それは、皇帝アウグストゥスのもとにではない。総督キリニウスのもとでもない。私どもにとってのプライマル・リアリティは、馬(家畜)小屋で生まれた、主 イエス・キリストにある”。
権力者のもとにではない。この社会を動かしている者でもない。むしろ、この世界に動かされながら、人口調査のため旅をしなければならず、家畜小屋にしか、こどもを生む場所を見出すことができなかった幼い夫婦――。その、もっとも貧しく、もっとも暗闇の深い場所にこそ、神の子が来てくださった…!
そしてそのお方が、御自分を罵る者たちのためにも父に赦しを祈られ、十字架にかかり、死を滅ぼし、復活してくださった――その主が、私たちの世界を新しく変え続けていてくださる。そこにこそまことの“プライマル・リアリティ”(世界の根本の現実)がある。私どもは、教会でこそ、そのことを想い出すのです。
わたしは、教会がほんとうに大好きです。こんなに、いろいろな方が集まる場所はほかにないでしょう。小さな、こどもから、少年、青年、壮年、熟年、年を重ねた者まで――誰一人怒鳴られません。誰一人軽んじられません。誰一人、バカにされません。ただひたすらに尊ばれる。ここは神の国の領地だからです。
わたしは、教会にいる、幸せでほんとうに美しい方々に多く出会って参りました。ずっと、なかなか治らぬ病で、しかし、微笑み続けるひとりです。年を重ね、体のあの部分この箇所が動かなくなっても、なお、楽しみを見出しながら楽しく語る一人ひとりです。多くの困難を抱えながらも、しかしこの礼拝堂で大きな歌声を上げる一人、ひとりであります。この、世界は、山のこちら側の世界は、“この世界にほんとうに神が生きておられるのか…”と問うでしょう。しかし、教会というのは、神が今、生きておられる痕跡を、神に従って生き・歩んできた一人、ひとりの信仰の轍(わだち)を示し、祈り語り継いでゆく者たちの集いです。
皆さんも、今日に至るまで、祖父、祖母、父、母、伯(叔)父、伯(叔)母、夫、妻、息子、娘、きょうだいと過ごされる中で、その愛する信仰者たちから、神の恵みの痕跡をたしかに感じ、受け取り、担って来られたに違いありません。そして私どもも今、その一人として新たに生き直します。人生の旅路・途上で、ひとつ、またひとつと山々を走り、越えてゆくのです! この足で――。そうしながら、私どもはみ言葉を運ぶ。
愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! お一人おひとりが、どんなに皆さんを待つ方々にとって必要とされていることでしょう。“よい知らせを伝える者の足は、何と美しいことか――”。
慰めと希望をいただいて、それぞれの場所へと、どうかお戻りください。