天からの声を聴こう!

イザヤ 42章1~9節   使徒言行録 10章34~43節  マタイ 3章13節~17節

 主イエス・キリストが、いわゆる《公生涯》と呼ばれるその歩みの初めに、ヨルダン川で“ヨハネ”というひとから洗礼をお受けになった出来事――。これは、マルコ、ルカの福音書にも記されておりますが、しかし、3福音書の中でも、マタイによる福音書だけが伝える、その意味でたいへん貴重な記録が、

 今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(15節)。

 という、主イエスの言葉です。今わたしがあなたから洗礼を受けるということは、「正しいことなのだ」と言われます。この“正しいこと”と訳される言葉は、むしろ他の聖書の箇所では“”と訳されることが多いと思います。“義”。つまり正義の“義”です。「すべての義を満たすのは、我々にふさわしいことだ… 

 ――むしろハッキリと、こう訳したほうがよかったかもしれません。これが、マタイによる福音書における、最初の、主イエスの、いわば主役の発言です。マタイによる福音書においてついに主イエスが口を開かれたその第一声が、「すべての義を満たさなければならない…」  

 そのような言葉であったのです。そしてこの“”という、ある意味聖書独特の言葉について大事なことは、一人では決して成り立たないものであるということです。つまり言い換えれば、ひとりの人をひとりだけ取り上げて、このひとは正しいか正しくないか――。そのように捉えることはできない、ということです。

 ちょっと硬い表現になりますけれども、〈義というのは常に関係概念である〉と、そのように教えられることがあります。つまり、たとえば、似たような言葉で言えば“和解”という言葉もそうです。ひとりの人だけを取り上げて和解しているか していないかなんてことは言えないのであって、必ず、他の誰かとの関係がどうなっているかということが、前提になります。

 “義”という言葉も、そういう種類の言葉であると言われます。自分一人が正しく生きている正しい生活をしている、ということではないので、他者との関係、何よりも、神との関係が正しく整えられているか、それとも崩れているか――。「すべての義を満たす…」と、つまり、主イエスが、「神との正しい関わりをことごとく完成させるのだ」とおっしゃって、洗礼をお受けになってそこで何が起こったかというと、天が主イエスに向かって開いた… …というのです。そしてその天から声が聞こえました。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

 もちろん、これは、父なる神が、独り息子であるイエスに、そう、語りかけておられるのです。しかし、どうでしょうか。聖書の翻訳ですからもちろんこのようでよいのですけれども、たとえば普通の親が自分の子どもにこういう言葉遣いで語りかけるでしょうか――じゃあいったいどう言うか。ある説教者が、たとえばこのように言い換えて見せました。

 「かわいい、かわいい… いい子、いい子…

 原文のギリシア語に遡って理解しても、間違った翻訳ではないと思いました。どうでしょうか――。しかしもし、我々の聖書の翻訳にそのような文字が印刷されたら、それはいくら何でも抵抗がある、と思われるかもしれません。けれども、おそらく今私が申しました以上に、当時の人たちが度肝を抜かれたに違いないことは、この主イエスというお方が、父なる神に向かって、“アッバ…”という呼び方で、神をお呼びになったということです。“アッバ…”というのは――つまり、子どもが父親を呼ぶ言葉ですね。まだ舌が回らない子どもでも“アッバ”“アッバ”というように、お父さんの名を呼ぶことができる。そして当時のユダヤの人びとにとってそのような言い方で神を呼ぶということは到底考えられないことでした。ある人びとにとっては冒涜すれすれ、というか冒涜そのものであると聞かれてしまったかもしれません。

 共に生活をした弟子たちにとっても、この主イエスの祈りの言葉というのは、たいへん、驚くべきものがあったと思います。“アッバ…”なんて――。なぜこのお方はこんな呼び方で神を呼ぶんだろうか。なぜこのお方は、こんな祈りかたをなさるんだろうか――。その秘密が、ここにあります。このお方は、天からの声を聴きとっておられたのです。かわいい、かわいい… お父さん、お前のことが大好きだよ…

 それに対して主イエスも“アッバ…”という言葉で、お応えになった――。もう一度申します。この“アッバ”という言葉は、天からのこのような声を聴いた者でなければ、決して口にすることのできないはずの言葉であったのです。そしてこれが、聖書の語る“義”、神との正しい関係です。神との愛の関係、父と子の関係です。しかも主イエスは、この、神との関わりを、ご自分一人の独占物とはなさいませんでした。

 あなたがたも、このような神との関わりに生きることができるのだ――。あなたがたも、この天からの声を聴くことができるし、聴くべきなんだ… そのような主イエスの想いが溢れたようなこの言葉です。

 すべての義が成就されなければならない…

 そのような言葉から主イエスの活動を書き始めたマタイによる福音書はこの“義”という言葉を、たいへん大切なところで何度も使いました。特に多くの方々の記憶に残っているに違いないのは、第6章、33節の言葉であると思います。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。

 神の義を求めるっていったいどういうことか。あなたがた一人ひとりが正しい生活をして、そのための精進を怠るな、ということでまったくなかったのです。そうではなくてここで主イエスが丁寧に私どもに教えてくださったことも、まさにそれこそ、神と私どもとの関わりを、正しく整えることでしかなかったのです。

 第6章の33節と申しましたが、もう少し前からその段落は始まっておりまして、そこで主イエスが何を言われたかというと、“何を食べようか何を着ようか…と明日のことまで思い煩うな ”とおっしゃったのです。“空の鳥を見なさい、野の花を見なさい…” しかしそれは、ただ“花はきれいだね”などとおっしゃったのではなくて、「お父さんはお前のことがほんとうに大好きなんだよ…

 そう言ってくださる神の愛にこころから信頼して、思い煩いを捨てて生きることこそ、人間が、いちばん人間らしく生きる生き方なのだということを、伝えてくださったのです。

 まさに私どもと神との関係が、父と子の関係、愛の関係として正しく整えられることを、こころから願ってくださったのです。しかしまたそれは言い換えれば、私どもと神との関係がひどく歪んでいるために、私どもがどんなに深刻な思い煩いの虜になっていることか――。そのことを父なる神ご自身がどんなに心配してくださったかということでもあるのです。「お父さんは、お前のことがほんとうに心配なんだよ…

 もしひと言でも天からの声を聴くことができれば、私どもの生活は、どんなに新しくなることかと思います。そのために主は、ここで私どもに先立って、天からの声を聴きとってくださったのです。

 感謝と悔い改めの想いを新しくしつつ、新しい教会の歩みを始めたいと願います。