失われぬ幸い

イザヤ 52章7~10節  ヘブライ1章1~12節  ヨハネ1章 1節~14節

 アドベントクランツに最後の灯りがともりました――。クリスマス。神の御子の誕生です。今日この日、いいえ、今日も教会に集う私ども一人ひとりにとって、決定的に大切なこと、それは、主イエス・キリストがお生まれくださった、という事実です それ以外に何もない。“主 イエスは生まれたもう…”。

 そしてまた、私どもが過去を振り返りますときに、ここにいる洗礼を受けた方であるならばすべて、私どもの人生にとって最も決定的なことは、私ども一人ひとりが洗礼を受けたという事実です。――洗礼を願っている友がおられるなら、どうか、どうか、示されたときに、恐れず受けていただきたい、とこころから願いますけれども――そう、あの日、あの時、私どもは洗礼を受けて、新しい旅を始めたのです そこから私どもの新しい旅が始まった。そして、その旅は、まだまだ続くでしょう。

 ですから私どもが、自らの歩みを振り返るとき、今ここにあるクリスマスの光は、この2022年のクリスマスの光、というにとどまりません。私たちが信仰を始めたあの日の光です。いえ、2000年前、あのベツレヘムに主イエスがおいでくださったあの日の光です。その光の中を私たちは、今年のクリスマスも歩んで行く――。

 わたしは、このクリスマス、こころに刻むようにこころに刻むようにしながら繰り返し続けたひとつの聖句があったのです。詩編の言葉です。詩編第73編の28節の言葉――。

 わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。(詩編第73編 28節)

 あるドイツ語の聖書では、ここをこういうふうに訳してしている。新共同訳聖書とは少し違うようになっていますけれども、短いですから、どうか皆さんも覚えて、深く味わっていただきたい。

 わたしは、主に近くあることを幸いとします

 クリスマス――。それは幸いを願うときです。幸せを願うときです。私たちは、さまざまな幸せを願います。家族の幸せを願います。自分の計画している夢が叶うことを願います。あるいは、自分の持っている責任がうまく果たせるようにと願う――けれども、主に遠くあって、神さまから遠く離れた場所で、そのような願いの一つひとつを果たしても意味がない。「わたしは、主に近くあることを幸いとします」。

 神さまは近いのです。あるいはこう言ってもいいでしょう。主イエス・キリストは、私たちの近くにいてくださるのです。それにまさる幸いはない。たとえ、健康を失っても、家族の中の問題がなかなか解決はせずとも、自分の持っている責任に対して、十分なことが果たせずとも、たとえ新しく始めたいと願っている一つひとつができなくなるとしても、「わたしは、主に近くあることを幸いとします」。

 どうか、この礼拝の間、いいえ、礼拝が終わっても――この詩編第73編の、たった一行の短い文章をこころに置いて、味わっていただきたい。

 わたしは、主に近くあることを幸いとします。――神さまが近くにいてくださる。

 年を、重ねて、部屋を出ることの少なくなった一人、ひとりが、涙を流しながらクリスマスの賛美歌を歌う、ということです。家族の顔の見分けもつかなくなったような方々が、しかし、主イエス・キリストの福音を覚えておられて、“アーメン”と祈ることができるということです。

 その幸いは、たとえ私どもの身体が見える形では無くなり、こころが朽ちたとしても残る… 何ものもその幸いを、私ども信仰者から取り去るものはない その大きな幸いの中に私どもは招かれている。

 先ほど、ヨハネによる福音書の言葉をご一緒に聴きました。第1章の14節までを読みましたけれども、今は一節だけでよいでしょう。ヨハネによる福音書が伝えるクリスマスです。

 〈言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た〉

 この“宿る”という文字が、“テントを張る”という言葉なのです。長く遊牧民族であったイスラエル、ユダヤの人びとにとって、テントは親しいものです。ヨハネによる福音書は、主イエスがおいでになったというのは、私どもの間にテントを張ってくださったようなものだ、と短い言葉で絵(イメージ)を描くのです。

 遊牧民族は皆、テントを担いで移動します。ある場所にテントを張って、家畜を離して、その辺りの草を食べ尽くしますと、テントを畳んで、次の場所へ移動する。テントといっても簡単なものじゃありません。それこそ、おそらくモンゴルの人びとを想い起してくださればよいのでしょうけれども――大きな丸太を、どっかりと置くのです。みんなが一つひとつ、テントをあちらこちらに。草原に、小さな町が出来あがる。そのテントの一つに、主イエス・キリストがおいでになった――。そういう言葉なのです。しかもそのテントが、光り輝いている… しかも、「言が肉体となった」とはどういうことか――。“声が聞こえる…!”ということです。主イエス・キリストの声が聞こえるほど近くに来てくださった。教会というのはそういう場所です。

 私どもの毎日は、明るいばかりじゃありません。また、私たちの毎日は、家の中からこそ、暗いことが起こることも多いのです。家族との間に、問題が起こることもありますし、独りであったらあったで、また、辛い思いをするのも、家の中です。私どもの日々、家の中で、学び舎で、病院で、施設で、職場で、いろんなことがおありでしょう。しかし、そういうとき“スッ”と、外を見てみる。こころのカーテンを開けまして、神戸教会のある方角を見てみるのです。すると、そこに、主イエスが肉となって、光り輝いて、街の真ん中に座っていてくださる。それほどに主イエスは近くに来てくださった。その歌を歌うことでヨハネは福音書を始めるのです。それは、私どもが神の近くに行くこととは異なります。

 主イエス・キリストが、私どもの近くに来てくださったのです。この街の真ん中に。私たちが少し電車や車やバスに乗ってやって来れば、それで済むような場所に来てくださった。

 主イエスは近いのです。そして、私どもが年を重ねるごとにますます近くなってきておられます。主イエスがどんどんどんどん近くに近づいてこられる どんな場所にいても、たとえ墓の中にいてさえも、主イエス・キリストはお訪ねくださるのです。そして、“ふっ”と手を伸ばし、その手をもって、一人ひとりの目の涙をぬぐい取ってくださる。その日が来る… その始まりが、クリスマスです。

 今日、主イエス・キリストが私どもをお訪ねくださいます。今日だけじゃありません。“明日も”主イエス・キリストはあなたをお訪ねくださいます。そして、“明後日も”、その次の日も、またその次の日も――。そうして、ここにある光が全世界に充ちる… 

 わたしは、主に近くあることを、幸いとします。――なんと幸いなことかと思います。