ヨナ第3章10節-第4章11節 フィリピ第1章21-30節 マタイ第20章1-16節
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。(第20章16節)
この主イエスのお言葉は、普段のものの順序をかき回し、私たちの大部分が生きていくうえで大切にしている前提に挑戦してきます。というのも、今日の主イエスの譬え話ではまるで、もっとも少なく働いた者たちが報われ、もっとも長く熱心に働いた者たちが列のいちばん後ろに送られる、ということが言われているように思えるからです。しかも、最後尾にいる者たちは、最前列にいる者たちと同額の賃金を支払われるだけでなく、彼らははじめに賃金を受け取るのです。ほんとうに不公平な話です。
そして、このような難しい物語を理解するには、その「前後」で何が起こっているのか、を知ることです。
たとえば、この前、第19章に戻ってみると、そこではペトロが、「自分たちは、主よ、あなたに従うために何もかも捨ててきた。その見返りとしていったい何をいただけるのか」と訴えるのです。すると主イエスは、「新しい世界では十二の座をあげよう」と彼らに約束されたうえで、ただ、こう付け加えられました。
「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(第19章27、28、30節)。
さらに、この物語のすぐ後には(第20章20節~)、ヤコブとヨハネの母が主イエスのところにやって来て、二人の息子を特別扱いしてほしい、神の王国では、二人に最上の席を与え、一人はあなたの右に、もう一人は左に座らせてほしいと願い出ます。主イエスは、丁寧に、しかし確固たる態度で母に言います。
あなたたちは、どうも、何を願っているのか分かっていないようだ――。わたしが着くことになる座とは、あなたたちが想像する、金や銀や宝石が散りばめられたものとは違って、木と釘でできた、十字架のかたちをしたものであるからね…と。つまり、ご自分の十字架(受難)と復活を予告されたわけです。
おわかりになったでしょう。主イエスが今日の物語を語る前も後も、弟子たちは、自分の地位を得ようと躍起になり、み国での上座を求め、最上の席を得ようと競うのです。まるで、扉が開け放たれ、ショーが始まるときに、だれもが列の先頭にいようとしているかのように――。
それにしても、今日の譬え話――主人(=神)が外に出てきて列の順番をひっくり返すなんて、こんなにひどいことはありません。
ちょっと想像してみてください。もし、あなたが劇場が開くのを列の前で待っているところに、前方に並ぶあなたにはそのままでいるように告げ、列のいちばん最後の者たち――今来たばかりの、炎天下に立つ暑ささえまだ感じていない者たち――が先に劇場に招き入れられたなら――わたしならきっと怒り、必ずブーイングを送ることでしょう。だって、明らかに不公平です。列の前方に並んでいた私たちは、その報いを獲得したのであり、それは自他共に認める事実です。それがだれであれ、いったい何を根拠に順番をひっくり返すことができるというのでしょう?
今日の物語によれば、ただ、主人(=神)は気前よくしたかった。――それが、ただそれだけがこの主人の根拠です。「わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)。
この主人は、ぶどう園の所有者(オーナー)であり管理人です。だから好きにふるまうことができる。その彼がしたいこととは、後にいる者を先にし、先にいる者を後にすることなのです。全員が支払いを受け、だれ一人として手を空っぽにして帰る者はいません。ただ、順番をひっくり返し、すべての労働者に同じだけを――どれだけ長く炎天下に立っていたかに関係なく――支払ってやりたいだけなのです。
最初に雇われた人たちの気持ちはおわかりになるでしょう(12節)。同等の労働に対する同等の賃金は公平、同等ではない労働に対する同等の賃金は不公平です。もっとも多く働いた者に報いることが公平であって、もっとも少なく働いた者に報いることは不公平です。全員を同じ扱いにすることは公平ですが、全員が同じではないときに、同じ扱いにすることは不公平です。
人生はしばしば不公平です。だから…だからこそ! 神は公平でいてくださることが何にもまして重要に思えます。神こそ、ただひとりの権威者であられて、人は努力によって報いをいただけるとあなたに確かめさせてくださる方。あなたがどれくらいの時間、どれほど熱心に働いたかを記録してくださる方。あなたが並ぶ列に人を割り込ませない方であるはずです。神こそただひとりの管理人であられて、列を取り締まり、前に後ろに行き来して一人ひとりが立つべき位置に留まらせ、そうして、最初の者は最初に、最後の者は自分の番が来るまで列のいちばん最後で待つように見張る方であるはずです。
しかし、今日の物語によれば、そうではないのです。
いちばん遅く来ていちばん少なく働いた者たちがいる列の後方では、大きな歓声が上がり、笑いながら大騒ぎです。一方、いちばん早く来ていちばん多く働いた者たちのいる前方近くでは、不満と怒号の大声が上がります。指示された監督は身の危険を感じ、封筒を配る手はだんだん早くなっていきます。だれの場合でも支払われる金額は同じ――正当な一日分の賃金――ですが、それをどう受け取るかは、もっぱら、それぞれの人が自分の受けるべき額はどれほどかと考えるかによってまったく異なります。
自分が受けるべきだと考えていた額よりも多かった者は歓喜にわき、自分が受けるべきだと考えていた額よりも少なかった者は激怒するのです。主人は言います。
自分の分を受け取って帰りなさい。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか――。
この譬え話で、わたしがいちばん気になるのは、私たちはその列のどこに立っていると考えるのか。この物語は、列の後方で聴くのと前方で聴くのとではずいぶん違ったものに聴こえてくる、ということです。
神は、不公平な方です。神は、私たちが決して知り得ない理由によって、私たちを分け隔てなく愛しておられるようであると同時に、神は、私たちの列の、いちばん最後から、最後に並ぶもっとも小さな者たちから始めることにより、ご自身のやり方は私たちのやり方とは違うことを教えてくださるのです。――それは、わたしたちがどのような人間であるからではなく、神がそういうお方であるからです!
そして、もしも、このやり方をとおして物事を理解しようとするならば、私たちは、自分が思い描いている公平の概念について、また、自分たちの列が順序通りにいかないと、なぜこんなにまで怒らなければならないか、ということに疑問を投げかけるべきかもしれません。
神は、不公平な方です。しかし、あなたが列のどの場所にいるかによって、力にあふれたよき知らせとして響きます。神は、不公平な方です。神は寛大な方なのです。そして、もし、私たちがその気前のよさをねたむとすれば、それは、自分がどこに立っているかを忘れてしまっているからにほかなりません。私たちの人生のある日、太陽が沈み、涼風が黄昏に吹きわたるとき、仕事が終わって、監督が支払いのために列の最後に向かったそのとき、彼に浴びせられる喝采と歓喜、笑いと感謝の声は、実は、私たち自身のものであった、ということは大いに、大いにありうることなのです。――神は言われます。
わたしはこの最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ…!