神が来られるから

イザヤ11章 1~10節   ローマの信徒への手紙15章4~13   マタイ3章1節~12節

 悔い改めよ… 

 …と言われます。今日の日課に登場する洗礼者ヨハネは、ただ、ひたすらに悔い改めを説いた人でした。このままじゃいけない。悔い改めないと そしてそのように語るヨハネは、「預言者イザヤによってこう言われている人である」と言われます。

「『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

 預言者イザヤの語った言葉――。つまり、何百年も前から、神が丁寧に準備なさった救いの道があったということです。その神の想いが今ひとつの声となって響き渡ります。

 悔い改めよ…

 しかもここで併せてどうしても覚えておかなければならないのは、同じマタイによる福音書第4章の17節にも、まったく同じ言葉が、今度は主イエス・キリストの言葉として伝えられているということです。

 悔い改めよ… 天の国は近づいた。

 …と言うのです。何百年も前から神が周到に用意なさった救いの道――。ついに“満を持して”、神がヨハネを通し、また主イエス・キリストを通して語られた、そのひとつの言葉が、

 悔い改めよ…

 今、私がひとりの説教者として、またひとりのキリスト者として、牧師として、神の家族として、共にこころから願いますことは、この“悔い改めよ…”という神の言葉が、皆さんの前に立ちはだかり、これを無視することができなくなる。そのような出来事が起こるように、ということです――。

 いずれにしてもここで、福音書が伝えるところによれば、荒れ野で叫ぶ声がしたとき、それが“悔い改めよ…”という言葉であったことに気づいたとき、人びとはこれを無視することができませんでした。

 ああ…そうだ、わたしも、悔い改めなければならない。

 この“悔い改め”という言葉については、ほとんどすべての人が同じことを指摘します。新約聖書だけではなくて、その前、更にその背景になっている旧約聖書の言葉に遡って理解したほうがよい、と。そして、ひとつよく、多く使われる言葉は、“帰る”という言葉です。“立ち帰る”という言葉です。そういう意味ではやっぱり“悔い改める”という日本語の翻訳は、もしかしたら誤解を招きやすいかもしれません。

 “ああ…またやっちゃった”と、そのことを悔いて、改めて、けれどもやっぱり改めきれなくて…しかしここで聖書が伝えている悔い改めと言うのは、一人で悔やんで決心したり、やり直したり、“またダメだ…”と言ったり、ひとりでゴソゴソゴソゴソやっているようなこととは違う。そうじゃなくて、帰るべきところに帰りなさい、と言うのです。

 あなたには帰るべき場所があるんだから、そこに帰りなさい。

 それは、こころの一部だけが帰ったってしょうがない。あなたのこころの全部を持ってきて、帰るべきところに帰りなさい…

 それは言い換えれば、神が私どものこころの一部を何とかしようとなさっておられるんじゃない。私どもの存在そのものを求めておられるということなのです 私どもの存在そのもの全部を、神が愛しておられということなのです。そのあなたの存在そのもの全部を、帰すべきところに返しなさい…――それが悔い改めです。

 この“悔い改め”という言葉はどうも誤解を招くかもしれないと申しましたが、たとえばもうひとつ日本語で“回心”と呼ぶことがあります。「こころを回す」と書いて回心。もしかしたらこちらのほうが、少なくとも元の聖書の言葉のニュアンスには近いかもしれません。

 ただし日本語で「かいしん」と言いますと、「心を改める」と書いて改心ということと、混同されやすいかもしれません。そのためにちょっとこういう場所では使いにくい言葉になってしまっているかもしれません。

 しかし私はこのこころを回す回心と、こころを改める改心についてかつてこういう説明を聞いてたいへん、納得したことがあります。心を回すのと心を改めるのとでは全然違う、と。どこが違うか――。

 心を改めるのは一人でもできる。心の中に悪いところがあれば、それを改める、と。少ししか改めるべき場所がなければ、それで済むかもしれないし、たくさん悪いところがあればたくさん改めなければならないかもしれない。しかし、全部それは、ひとりでするんです。けれども、“こころを回す”と書くと、こころの一部だけじゃない。こころの全体が問題になります。しかも、そのあなたのこころの全体が、どっちに向いているのか。もっと言えば、あなたのこころが誰に向かっているのか――。そのことが問われます。

 ヨハネが、荒れ野で、「帰りなさい…」と言ったのは――こころを回して、出会うべきお方に出会いなさい。あなたのこころ全部を求めておられるお方がいるのだから。あなたの存在全部を、愛してくださるお方がおられるのだから――。そのお方のもとに帰りなさい。

 …と言うのです。そのために主イエス・キリストが、私どものために近づいてこられたのだ…というのです。

 ここでの問題は、神とこの私との関係がどうなってしまっているかっていうことです。一人で決心したってしようがない。もし、離れ、分断されてしまっているとするならば、その神との関係を、どう修復するのか、ということです。そのためにしかし私どもがすべきことは、心を向けて、神に帰ることです。しかも私どもに先立って、神が私どもに身を向け、私どもに近づいてくださったのです。私どもの目の前に、立ちはだかってくださったのです。

 悔い改めよ… 天の国は近づいたのだから

 “悔い改めなさい”と言われたって何もできないのが私どもであるかもしれない。けれども、“天の国には近づいたのだから”と言われる。もう、既に、目の前に立ちはだかっていてくださる主のお姿に気づくならば、私どももそのお方に身を向けざるを得ません。

 主イエス・キリストの父なる御神。今、既に、帰るべきところに帰らせていただいていることを、こころからの畏れと感謝とをもって受け入れさせてください。こころを改めることすら、けれどもそのような私どものすべてを、あなたがいま求めていてくださっています。あなたが、私どもをご自分の子として、愛してくださるのです。今、私どもの目の前に立ちはだかっていてくださる主イエス・キリストのお姿を、あなたの聖霊に助けられて、明確に仰ぐことができますように。主イエス・キリストのみ名により祈ります。