神さまに招待されたら

今日、ここで何度も用いられている「招く」という言葉は――「呼ばれた」と、訳し直すことのできる言葉です。そうです まさしく洗礼を受けてキリスト者とされ、神を信じて生きるとは、“わたしは神に呼ばれた、このお方に招かれたのだ… ”と、そのことを受け入れて生きる、ということです。表向きには急に生活が新しくなるなんてことはないかもしれない。急に顔つきが変わるなんてことも、そうそう起こらないかもしれません。けれども根本的なところで変わります。わたしは神の招きを受けているのだ… と――。私ども一人ひとりのこと、皆さんのことです この〈わたし〉が招かれている、神に呼ばれている――。

すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」(4節)。これは、遣わされた家来の言葉ですが、しかしまたここで、神ご自身がどんなに深い喜びを込めてそうおっしゃったか。その神の想いを、思うべきです。この「用意ができています、おいでください」という言葉はかつて、聖餐を祝うときに、その招きの言葉として使われていたことを、このたび知りました。「来たれ、すでに備わりたり」(文語訳聖書)。そう司式者が告げて、聖餐にあずかる。神が、この祝いの食卓を用意してくださった――。「来たれ、すでに備わりたり」。その神の喜びの声をどこかで確かに聴いたから、私どもも今ここに、いるのです。

さあ、用意ができましたからお出でください」。

神の招きというのは、神の方でなすべきことを全部して、すべてを整えて、“さあ、この恵みに加わりなさい…”と、呼んでくださる招きなのですが、そうしたら人間は、“ああよかった…”と言って皆がそれに応えるか、というとしかしそうではない。それが今日の、主イエスの譬えです。

この家来は、いったい、なぜ人びとのもとに行ったのか――人びとを、恵みのもとへと招くためです なのにその家来を殺してしまう、というのは、王が、つまり神が――人びとを招かれる道を断ち切り、塞いでしまう、そういう行いです。それに対してこの王は激しく怒る(7節)。招きの道を閉ざすことを、もう絶対に見過ごしにしない… という神の断固たる、強い意思が、ここに明確なかたちで裏打ちされています。

この王は、何としても、“この婚宴を、成功させたい… ”と願っているのです。人びとが無視し、拒否しても、絶対にあきらめない。ついには、“だれでも、無理やりにでもみんなを引っ張って来い… ”と――。ここも、常識をひっくり返すような言葉だと思う。少なくとも、主イエスのこの譬えでは、その人間がどういう者であるか、ということは、一切問われていない(「見かけた人は善人も悪人も皆」/10節」)。

先にこの王は、「招いておいた人は、ふさわしくなかった」と言いますが(8節)、この言葉も、わたしは、何か、ふさわしい・ふさわしくない、ということで、招かれる人の資格を問うているのではないと思うのです。むしろそれは、自らの、ご自身の招きを、妨げることをゆるさない、神のお心が、鮮やかに表れているお言葉だと思う。実際にこの王は、その人がどんな人であろうと、“来たれ、すでに備わりたり”と招いておられる。それが神の招きだ、と主イエスはおっしゃるのです。――しかし、そこに、「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」(11節)。通りにいるところを無理やりひっぱって来られたんだから、もう礼服を着るも着ないもないだろう…!? と思うところですが、しかし、ほかの人はみんな着ていた、ということなのでしょう。当時、婚宴に招くときにはその客人の礼服までも用意しておく、という慣習があったようですから、ここでも王は、ちゃんと用意をしておいたに違いない。

せっかく礼服が用意してあるのにそれを着ない、とはどういうことか――。それは、このひとのこころがこの祝いの席にないのです。呼ばれたからまあ仕方なく来たけれども、自分の本意ではない、あるいはこの場に何の関心もなく、連なる気もない。だから、着替えない。自分の前の服装を変えようとしはない。

主イエスの譬えの最初に出てくる人たちとは違って、今度の人は、連れて来られることに抵抗まではしなかったけれども――“一緒に祝おう…”というその、王のこころに、ちっとも響き合おうとしない。自分が祝いの席に招かれ、恵みに与らせていただいている、そのことに対して、関心がない。心ここにあらず。そういう姿を見て、なぜ礼服を着ていないのか――と、王は問うたのです。

そうしたらこの人は、「黙っていた」と(12節)。ここに、このひとの思いがよく現れています。応える気持ちもないのです。なぜ礼服を着ないといけないのか、何を言っているのかさっぱり意味がわからない、とそういうことなのでしょう。“共に喜び、祝おう…“というこの王のこころに、ピントが合っていないのです。

あるいは、畑に、商売に出かけるからこの招きは無視しよう、遣わされてきた家来たちは殺してしまおう。――どうも、あなたは、人生の損得勘定を、間違っていませんか。自分の都合にあわない神はいらない、神もまた自分の人生の都合に合わせてくれるものでなければならないと思い込んではいませんか。自分のいのちを生かすために何が大切か、よく考えてごらんなさい――。けれども主イエスが十字架につけられたのは、遂に、人間が、重大な計算間違いをしてしまったということを意味します。

想い起こしてください 同じマタイによる福音の第9章で、徴税人のマタイを招かれたとき、主イエスは罪人たちと呼ばれた人たちを集め、実に喜ばしい食卓をつくられたことを。さらにはその喜びの大きさを説明するように、第18章で、迷い出た一匹の羊を見出したときの喜びを、譬えで語られことを。あるいは、ルカによる福音書において、いなくなった息子の譬えを語られ、そのいなくなった息子が帰ってきたらその父親の喜びはどんなに大きなものがあるだろうか――とおっしゃったことを そこでもまた父親は、その帰ってきた息子のために、盛大な祝宴を設けるのです(第15章)。

ここで、次々と招きを断ってしまった人びとの間違いは、この神の喜びを、見失ってしまったことでしかない。神の喜びに招かれた、この私のことを、どんなに神が喜んでくださるか――。その事実に気づけばよかったのです。気づいたならば、どうかこの招きを受け入れてほしい… ほんとうにそれだけなのです。

けれども主イエスはこのようなたとえを語られたときにすでに、わたしはこの人たちのために、死ぬのだ、ということを、忘れてはおられなかったと思います。その死を超えて、私どもを、なおも招こうとする神のみ心は、そこにすでに、聴き取ることができるものであると、わたしは信じます。

私たちを、しかし、喜びの席に引きずり込んでくださるのは、だれの意思でもない。ただ神のご意思、神の招きに、よるのです。そのことを知るときに、私どもの生活はやはりどこかで根本的に変わるものだと、わたしは思います。世の人びとが尋ねるかもしれない。なぜ、あなたはそういう生き方をするのですか。

わたしたちは応えます――わたしは神に招かれたのです。あなたは、どうしてそういう葬儀をするのですか。わたしたちは応えます――神のいのちのもてなしを受けたからです。そうして、世の人たちは気づくのです。なぜここにこういう人たちがいるのか。なぜあそこにあの人たちがいるのか。“ああ…そうだ、あの人たちは神に招かれたのだ。だからああいう生き方をしているんだ――”と。

すばらしい、光栄ある立場を与えられていることを、低いこころで、受け入れ直したいと願います。