神の子なら・・・。

創世記 第2章15-17、第3章1-7節   ローマ 第5章12-19節   マタイ 第4章1-11節

 愛する礼拝共同体。神の家族の皆さん今日、悪魔は主イエスに三つの誘惑を仕掛けてきます。ここに提示されているものを見ればどれも、人間の生存にとって欠くことのできない要素です。

 「神の子なら」という囁きが、実に印象的です。これは、神の子“なのだから”と訳すことのできる表現でもあります。神の子なのだから神の子らしく振る舞って見ろ、神の子らしい証拠を見せろ、ということです。神の子だ神の子だと、口で言っているだけじゃ分からない。その証拠を見せてもらいたい、と。

 第一はパンの誘惑です。お前が人びとを救うために世に遣わされた神の子なら、石をパンにすることなど容易いだろうと囁きかけるのです。

 どれほどの人間が、今も飢えて死んでいると思うのだ。お前が今断食の果てに一切れのパンを欲しているように、どれだけの人間が一切れのパンを得ようともがき苦しんでいるかを知っているのか。神の子なら、まずこの求めに応じよ。それこそが愛ではないか。ここは荒れ野、無尽蔵に石はある。これをパンに変えよ。そうすれば飢えの問題は一挙に解決、物質的な条件は整えられていく。お前が神の子なら…!?

 この誘惑者の言い分、どこか間違っているでしょうか――。「石をパンに変える力で人を助けられるではないのか」と囁いているのです。けれども、主イエスは見抜かれました。生きるというのは、神から生きる意味をいただいて生きることなのだ、と――何のために生きているのか、その生きる意味を見失ったら、いくらパンが豊富でも、有り余る食糧があっても虚しい。悪魔の誘惑を退けるとき、主はそれをはっきり示されます。「『人はパンだけで生きるものではない神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」4)と――。主イエスが教えてくださった、今日も共に祈る、主の祈りのちょうど真ん中で、私たち人間の生活についての祈りがなされる、その第1は、「わたしたちに今日、この日の糧をお与えください…」です。そうです、主イエスは、今日、この日のパンを求める祈りが、私たち人間にとってもっとも必要なことをご存じなのです。「祈りなさい、求めなさい、叩きなさい――。そうすれば、あなたがたの憐れみ深い天の父なる神が、必ずパンを与えてくださる…」(マタイ 第7章7節以下)

 だからこそ、だからこそ、パンだけでは生きられないという言葉は、パンを軽んじている、軽視しているのではなく、神の言葉に生きることを重んじなさい、神の言葉を重視しなさい、ということです。そう言って、「主の口から出るすべての言葉で生きる」という、申命記の言葉を引用されました(第8章3節)。

 どんな状況にあっても、何をするにしても、神は今、このわたしに何を語りかけておられるのだろう…!?神との関係はどうなのだろう、神との関係はどうなるのだろう、と絶えず問い続ける生き方にこそ、わたしたち人間の人間らしさがあることを、主イエスは知っておられるのです。

 そこで悪魔は第二の誘惑を仕掛けます。第一のパンの誘惑というのは、ひと言で言うなら、「お前なら経済問題を解決できる」という誘惑です。経済の次は、いわゆる宗教的な誘惑です(5、6節)。誰もが崇敬するエルサレム神殿。神の子がそこに姿を見せて、パフォーマンスをくりひろげる。神殿の屋根から飛び降りると、白い衣を着た天使たちが、どこからともなく現れ、空中で神の子を支え、讃美の声に包まれる。そこで神の子は、ふわりと石畳のうえに着地する(詩編 第 91編11-12節)。聖書にも書いてあることではないか。そういう光景を見たら、イエスよ、例外なく誰もがお前を神の子と信じるだろう。律法学者もファリサイ派も、ヘロデ党の者も、ローマでさえも、お前を尊敬する。ばらばらの世界の宗教は、すべて神の子であるお前によって統一される。悪魔も第一級の知恵者ですから、主イエスを誘惑するには、聖書の言葉を用いるのが一番だと熟知しています。けれども主イエスの答えは、ほんとうに地味なひと言でした。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)。

 見える確かさを示し、力を見せ、大きなことをしなければ人びとを説得できない。そのことの中にすでに不信仰が忍び込んでいます。神を信じる者はどんなことがあっても、現実がどんなに無力に見えても、失望せず最後の勝利を信じます。信頼の絆で結びついている子どもが親を試したりはしないように、神を信じる者は神の愛を疑いませんそこに亀裂を入れ力に走らせようとするのが悪魔の誘惑です。

 経済の誘惑も、宗教の誘惑も失敗。悪魔が最後に思いついたのが、政治の誘惑です(8節)。「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」。繁栄している国もあれば極貧の国も、戦争、内乱の国もある。世界の国々が統一されれば世界は平和になり、繁栄するだろう。独裁者たちは皆、アレクサンダーも、カエサルも、ヒットラーも、スターリンもそう考えました。そして自分を神の子のように錯覚しました。

 主イエスの目の前に展開される世界は壮大です。回りくどいことをせずに、お前がすべての権力を手にしさえすれば、世界の繁栄は約束されるのではないのか。神の子が神として振る舞って何が悪い。そう悪魔は囁きます。けれどもひと言「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」という言葉をそっと加えるのを忘れてはいませんでした。悪魔を拝むというのは、見え見えの悪魔崇拝者になるということでもありません。独裁者たちがそうであったように、自分を神のようにあがめ、あがめさせることです。ナルチシズムです。

 しかし主イエスは悪魔の誘惑の本質を見抜かれました(10節)。人とは何であるか。ただ「あなたの神である主を拝み、神にのみ仕える者」。どんな環境・国籍・立場にある人も、まず、神によってこの世に命を与えられ、神からの使命によって生かされているひとりの僕――。主イエスはそう言われます。一人ひとりが、主の僕として幸せに生きられなければ、幸せはやってこないし、平和もないのです。

 「神の子なら」と執拗に迫る悪魔を、奇跡的な力を一切使うことなく退けられた主のお姿は、とても地味に思えます。額に汗して働き、神に信頼して、神から命の糧を受けて生きる。自分たちが知っていることが決してすべてではないことをこころに留め、いたずらに奇跡を求めず、神を試みず、自らを委ねて、必ず神の御心が行われる日を、希望しつつ生きる。――あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ…

 真理はいつも単純です。真実な生き方はいつも単純です。幸いな生き方はいつも単純です。それは、信頼という単純さに貫かれています。虚偽が多くなればなるほど、事柄は複雑になります。

 結局、主イエスは、一挙に問題解決という方法をすべて退け、一人ひとりが神に助けられ支えられて、しっかりと生きるようになる。そのために、自分の命を与え、十字架の道行きを引き受けるという、神の子なのに、いや、神の子だからこそ、最も迂遠な道を選ばれたのです。なぜなら、救いはどこまでも、一人ひとりの救いでなければならないからです。魂は一人ひとりの魂です。命は一人ひとりの命です。キリストは、一人ひとりのキリストです。キリストはあなたのキリストです。生きる意味も、神への信頼も、人類の平和も、一人ひとりが救われることなしには、いつも砂上の楼閣です。だからキリストは、一挙に解決するかのように見せかける悪魔の誘惑を全て退けられたのです。「神の子なのに」ではなくて、神の子だからこそ、そうなさった――。主イエスにとって、自らが神の子として生きるということは、間の、いちばん大切な低みを生き抜くということに他ならなかったのです。人間を上から支配するのではなく、一人一人の命を支えるものとして、その低みを生き抜くということだったのです。

 無力であっても信仰に立つ者たちを勇気づける、主、キリストの姿です。