イザヤ第51章1-6節 ローマ第12章1-8節 マタイ第16章13-20節
主イエスは、時おり、弟子たちがどこまでわかっているのか、どこまでご自分のことを理解できているかを知ろうと、テスト問題を出されます。「人びとは人の子(=わたし)のことを何者だと言っているか」。
これまでも、弟子たちは主の質問に対して的外れな応答をし(たとえば第16章5節以下)、「信仰の薄い者たちよ…! なぜわからないのか」と主イエスもいら立ちを隠そうとはなさいませんでしたが、このときは、次々と手が上がりました。だって、自分が考えたことではなく、聞いたこと、だれかが自分はこう信じていると語ったのを報告することには、大きなリスクは伴いませんから。弟子たちも、きっとわくわくしながら、自分たちが耳にはさんだとっておきの情報を掲げて見せたことでしょう。
それで、どれなのですか、先生? 正解はA、B、C、それとも、それ以外? ” ところが主イエスは、弟子たちに答えを明らかになさいません。主が求めておられるのは、かれら自身の答えだからです。
主イエスがこう尋ねる弟子たち、それは最も主の近くで、最も主と親しくし、主がお与えくださる最も良いものを受け取ってきた人たちです。そのあなたがたはわたしを何者だと言うのか――。急に誰も手を上げなくなり、みんなじっと下を向いたかもしれない。――どのくらいの沈黙が続いたのでしょう。ペトロはとうとう自分の答えを口にします。“あなたはメシア(=キリスト)、生ける神の子です――”。
ペトロがいてくれてよかった! 正しいにせよ、間違っているにせよ、最初に手をつけてくれるのはいつもペトロです。漁の網を置いて主イエスに従うのも1番、舟から降りて水の上を歩くのも1番、どんな話題であろうと進んで意見を出すのも1番です。私たちは時に、ペトロが勇敢なのかただ無鉄砲なのかわからなくなりますが、どちらにしろ、彼の答えは主イエスが求めておられる答えであったようです。主はすぐさまペトロに対して、「あなたは幸いである」、「あなたは教会が建てられる岩である」、「あなたは天の国の鍵の相続人である」と告げておられるのですから――(17-19節)。
しかし――そこからわずか数節の後には、主はその同じ岩で、ご自分の足を躓かせることになるのです。「サタン! 引き下がれ」。ついに主イエスがペトロにそう告げる部分を、来週の福音書日課でわたしたちは読むことになります。「あなたはわたしの道を妨げる躓きの石だ」(第16章23節/英語聖書訳)。
けれども、今、わたしたちにはそのことがよくわかる。このペトロは、所詮、水の上を歩いている途中に沈んでしまった男です。また、主から問われて一番に手を挙げたかもしれませんが、そこで大胆な発言をしても、いつもそれを最後まで貫くことができたわけではありません。かれは衝動的で偏屈、いよいよの時には、イエスなどまったく知らない、とまで言ってしまいます。――もし、ペトロの肩を持つことができるとすれば、せいぜい自分から進んで最初に取り組もうとするところ、率直に意見を述べるところ、あるいは、倒れるたびにまた起ち上がり、自分の身体をはたいては突進するということくらいでしょう。
ほかの弟子たちが間違いを恐れて尻込みしている中で、ペトロは思いきって自分の答えを出した。そして、驚くなかれ、それがたまたま神の答えとして、主イエスの耳に心地よく響くものであったのです。
「あなたはペトロス(岩)。わたしはこのペトラ(岩)の上にわたしの教会を建てる」。――ここで主はシモン・バルヨナに新しい名を与え、ご自分が日常語っておられた母国語(アラム語)で語呂合わせをしておられます――主イエスがここで二回用いられた単語は、同じ「岩」を表わす言葉の男性形と女性形ですが、この二つには微妙な違いがあります。ペトロス――主イエスがペトロに授けた名前――は厳密には石、また小石のこと。あるいは大きな岩の小さなかけらを表します。
その一方、ペトラが意味するのは巨石、主鉱脈、巨大な岩です。そう、ペトロは小石、小さな岩のかけらに過ぎない。けれども、そこには元の岩の塊があって、その元の岩の塊から取られた一片、大きな岩のひとかけらであるのがペトロだということなのです! 陰府の力、死の力もこれに決して対抗することができない、大きな大きな岩のひとかけら、です。
改革者のルターは、マタイによる福音書のこの箇所をとりわけ愛し、生涯に何度も説教したと言われます。そこで終始一貫こういうふうに説き続けた。まことにルターらしいとわたしは思います。
教会を建てるもの、それは、ペトロではありません。ましてやその信仰告白でもありません。教会を建て上げるのは、主イエス・キリスト御自身なのです。ここでこのお方が「この岩」と言われたのは、実は主イエス御自身のことなのです――。見事に聖書の真実を掴み取っています。教会の基礎、岩はキリストです。
愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん! ペトロが「岩」であるのは、彼が、主イエス・キリストという「千歳の岩」(讃美歌260番)、救いの大岩から取られたひとかけらであるからです。そしてこの関係の上に教会が建てられるのであり、ペトロの――そして、あなたの、わたしの――美徳の上にではないのです。
ペトロがどのような人物であり、何を語り、行うから、彼が幸いであり、「岩」であるというのではありません。それは、彼が選ばれているからです。それは、主イエスが、計り知れない知恵と人知を超えたなさり方で、この頑固者で太っ腹、うっかりもので、強情で、不屈の根性をもつこの男の上に、ご自分の教会を建てると決断なさったからです。ペトロがいてくれてよかった!
そう、ペトロがその上に教会が建てられる岩であるならば、ここにいる私たちすべてに望みがあります。なぜなら、ペトロは、私たちのうちの一人だからです。なぜなら、隅の親石のように振る舞おうと、躓きの石のように振る舞おうと、ペトロが神に選ばれた岩であることには変わりがないからです。
ペトロが主イエスと最後にお会いしたときの物語は、マタイではなく、ヨハネによって伝えられています。そこは湖の岸辺、よみがえられた主が、弟子たちのために朝食を用意し終えてすぐのことでした。食事が終わるとすぐに、主イエスはペトロの方を向いて尋ねます。一度ではなく、三度まで。「わたしを愛しているか――」。三度、ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」。そして、三度、主イエスは言われます。「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ第21章15-17節)。
このことから、わたしたちは考えさせられます。主イエスが、ご自身を愛する者から求めておられる最終的な答えは、ひょっとすると、口から出るものではなく、それを生きることかもしれないのだと。わたしたち一人ひとりにとって、主が何者であるか、ということについてのほんとうの真理は、わたしたちの唇にではなく、わたしたちの生き方に表されるものなのかもしれません。大切なことは、やってみることです。――わたしたちが信じていることを口にするだけでなく、信じていることを生きてみることです――。
わたしたちは知っています。わたしたちはペトロの系譜に連なる存在であることを。わたしたちが立ち上がろうと倒れようと、わたしたちが出す答えが正しかろうと誤っていようと、私たちは、主イエス・キリストという救いの大岩から取られた一片であることを。私たちは、真理の岩のひとかけら、死の力もこれに対抗することができない岩のひとかけらなのです。