イザヤ第56章1節、6-8節 ローマ 第11章1-2a節、29-32 マタイ第15章21-28節
聖書、殊に福音書に伝えられる多くの、主イエスによるみわざ・出来事は、大要、次の3つに分類・整理できると言われます。①「説教」、②「奇跡(癒し)」、③「(ファリサイ派や律法学者、人びととの)論争」。
では、今朝の第15章21節以下、「カナンの女性の信仰」の物語についてはどうか。この女性の娘が悪霊を追い出していただいた、という点では「奇跡(癒し)」です。けれどもう一方で、ここに〈論争〉とでも言うべきものがある。主イエスとこの女性とは、ここで議論をしています。言葉をもってやり取りとしている! そして、興味深いことに、聖書学者たちの多くは、これを「論争物語」に位置づけるのです。
と言うのも、たとえば癒された後に、群集が驚いたとか、このことを誰にも言ってはならないと主イエスが命じたとか、あるいは癒された後にこの娘、子どもが食事を摂ったとか、奇跡物語の場合に顕著なそういう内容が記されていない。むしろ、中心は、主イエスとこの女性との語り合いにあるのだ、と考える。
そして、〈論争〉というからには勝ちと負けがあるものです。これまで、主イエスはたくさんの学者、ファリサイ派たちと実に激しい議論を、論争を繰り返してこられました。そしてことごとく、その相手を打ち負かしてきた。けれども、ここでは、主イエスは論争に負けているのです! この女性のことばに負けてしまった。負けることを喜んでくださった――。
しかも、この主イエスと四つに組んでこの方を負かしてしまったのは、「カナンの女」(22節)。彼女は、「異邦人」。これはユダヤ人以外のすべての人を指す聖書用語であり、マタイは前に〈食前に手を洗うかどうか〉という問題について記していますが、ファリサイ派や律法学者たちが「このようなひとに触れたならどうしたって手を浄めなければ食事ができない」と考えたひと。議論が巧みで知恵も知識も十分備えた学者たちでもない。名前も出てこない。しかも、女性です。どう見ても当時は軽んじられていたに違いない、その、ほんとうに小さな女性が――主イエスを負かし、説得してしまったのです!
それにしても、この女性に対する主イエスの態度を、訝しがる方は少なくないと思う。「主よ、憐れんでください…!」との、娘のための切なる求めを拒まれ――ハッキリと一線を引かれ――まるで月の裏側にある岩のように黙り込み、彼女が外国人であることを指摘し、あげくの果てに彼女を犬(「小犬」と言ってもその厳しさが和らぐわけではないでしょう)になぞらえます。「イスラエルの家の失われた羊(ユダヤ人)のところにしか遣わされていない」(24節)という答えは、「救いはユダヤ人から来(始ま)る」(ヨハネ第4章22節)という、聖書が一貫して語っている事実をなぞらえただけのことで――ユダヤ人が特別に優れているという話ではなく、“神は救いのご計画を、ご自身の意思通りに、順序立てて進められるのだ”ということですが――わたしたちはこの言葉にもどこか、宝石のような冷たさを感じ取るかもしれません。
さらに、「イエスは何もお答えにならなかった」(23節)。この1節、この主の態度には、わたしたち信仰者のこころの痛みを映し出すものがあるかもしれない。主イエスから神のお顔が見えなくなるのです。“イエス様…主 イエスよ来てください”と呼びます。ところが主イエスはどこにおれるのか、まるで隠れてしまわれているようだ。ある時には、“イエス様”と呼んだらイエスが直ぐ傍に来てくださるように思えた。ところが幾度、このお方の名を叫び、祈っても、主イエスのお顔が、お姿が、恵みが見えない――。
しかしここに、そのように一線を引き、その線の向こう側に隠れてしまおうとなさる、主イエスを引き出してしまった人が、すぐに出て来ました。この女性は、「主よ」と呼びかけます。
「主よ、ダビデの子よ!」。――これは、救い主のために用意されていた特別な名前、称号です。次週の日課である第16章では、ペトロがいよいよ信仰告白をしますけれども、この時点ではまだ、主に従う者たち、最も身近にいた12弟子でさえ認めそこなっていたものを、イエスの中に、すでに見出しています。
この女性は、引かれた線の向こう側にとどまろうとしません。足もとにひれ伏し、見上げて言うのです。「主よ、どうかお助けください」。主イエスが退けても、彼女は梃子でも退こうとしません。主イエスが自分の目の前でドアを閉めてしまう前に、ドアに足を突っ込んで、主が応じてくださるまではそこを立ち去らない素振りです。小犬と呼ばれ、彼女は答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。実に、ユーモアに満ちている。ウィット(機知)さえもって切り返すのです。
主よ、まことにその通りです! しかし、あなたがわたしのことを小犬と呼ばれ、わずかでも慈しまれるなら、その愛する犬を、あっちへ行け! とは言わないでしょう。食卓の下に、あなたのパン屑はこぼれる筈でしょう。確かにあなたはまず、ユダヤ人の救いのために来られました。けれども、あなたの力はユダヤ人の救いのためだけに用いるには、まだまだ有り余るでしょう。あなたの恵みは実に豊かな筈でしょう…!?
そのわずかな部分、わたしにもいただけますね――。あなたはそれほどに豊かなお方です。
彼女がこのように話したとき、主イエスの中の何かがパチンと音を立てます。主ご自身の中の何かが整理しなおされ、その変化が主のみ声に現れ出ます。
婦人よ、あなたの信仰は立派だ(=大きい!)。あなたの願いどおりになるように。
この女性は、神さまに脅しをかけない。もしもわたしの願いを聞き容れてくださらないならば、あなたを神としません。もうイエス様あなたを信じません。そういう短気ではないのです。神を神とする――。神の豊かさを見抜いている。主イエスの豊かさを見抜いている。そして、その豊かなこころを、主は喜んでくださる。「大きい…あなたの信仰は…!」。主は、ご自分で引かれた一線を、境界線を踏み越えてくださる。
わたしは、この女性の姿を、教会で出会って来たさまざまな方たちに、重ね合せることがあります。身寄りのない、ご老人がおられました。だいぶ痴呆が進んでおられ、ひとりで生活することができず、施設に、入らざるを得なかった。わたしの顔をなかなか覚えてくださいません。わたしを見ると「おや…? どこのお兄ちゃん?」 「…牧師の神﨑です」と申しますと、「ああ…! そうですか先生ですか」。そしてまたしばらく話し始めると、「おや…? あなたどこのお兄ちゃん?…牧師の神﨑です」。「ああ…そうですか」。そういうやり取りをたとえば30分の中で、10回20回繰り返さなければならない。けれども、この方はこういう祈りをなさる。それこそ、曲り始めた背中を小さくし、しかし顔だけは上を見上げて、祈られるのです。
神様、もう私の頭は、よくわからなくなってしまいました…。けれども、どうかこの私に、大きな希望、大きな恵み、大きな信仰を与え続けてください。――その祈りを何度も何度も繰り返される。そう、今日の女性と同じです。
主よ、私たちは小犬にすぎません。しかし、あなたの前にひれ伏すこの私のもとにも、あなたの恵みは豊かにこぼれ落ちて来るでしょう。どうか、たくさんこぼしてください。主よ、あなたは豊かなお方です…!
――この祈りを、わたしの、私どもの、この神戸教会の祈りとしたい。