使徒 第2章42-47節    Ⅰペトロ2章19-25節    ヨハネ 第10章1-21節

 わたしは良い羊飼いである… ――主イエスは、二度もおっしゃっています(11、14節)。もちろんこれでよいのですけれども、もうひとつの翻訳は、「わたしがよい羊飼いである」ということです。主イエスが、名乗りをあげてくださる。わたしが、わたしこそが、良い羊飼い

 悪い羊飼いもあるので、悪い羊飼いは羊をちゃんと守らない。良い羊飼いだということは、羊を必ず守る…そのことを語りながら、主イエスはここで、良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる――。ご自分が命を捨てるということを語り始められました。「わたしは羊のために命を捨てる」と(15、17、18節)。

 実際に、ユダヤの羊飼いは、羊に名前をつけていたそうです。ある注解書に出ているのを、日本語に訳しますと、ミミナガとか、ハナジロとか、あるいはシロバラというふうになりますか。羊の特色を捕まえた名前が、多かったようです。ミミナガ… ハナジロ… そう呼ぶと――羊がいちいち“メェー”と返事したかどうか分かりませんけれども――飛び出して来るんでしょう。羊飼いは群の一つひとつをよく知っているし、羊は主人、世話をしてくれる者たちの声はよぅく知っている。「羊はその声を聞き分ける」(3節)。自分の名を呼ぶ、その羊飼いの声に従って行く――。

 ドイツの老齢の牧師が言っておられたことを聞いて興味深いと思ったのは、「先生が今牧しておられる教会の会員は何人ぐらいですか」と言うと、「わたしの羊は何人…」――羊は何人っていうよりも“何頭”と言う方が普通かもしれませんけれども――自分の、教会に集う者を“羊”と呼んでいるのです。わたしの羊は何人ですよ…」。言うまでもなく、牧師の羊ではない。厳密に言えば“主イエスの”羊です。そう、“教会に生きる”ということは、主イエスに、名を呼ばれている、ということです。これはとても大切なことです。もっと根源的なことは、教会に集う者は皆、名前をもっているということです。その名前において呼ばれるべき、一人、ひとりなのです。

 しばしば“教勢(教会の勢力)”ということを言います。〇〇教会の教勢は…と言うと、会員数何人 礼拝には何人集まる。そういうことを嫌う人もいます。牧師や、役員が、自分のところに集まる人数を競い合っているように、聞いて、「それはおかしい」と。場合によったら商人が、自分のところには幾ら幾ら利益があった、どのくらいお金が貯まってるっていうことを誇るのと同じことだ、と 言う人もあるのですけれども、私は、そういう批判をする人たちは、教会員が、どんなに少なかろうがどんなに多かろうが、皆、主イエスに名を呼んでいただいている者たちなのだ、という事実を忘れてしまっていると思います。

 ほんとうに教会に生きている者は、会員数は30人だ50人だ、礼拝に集う者は100人だ200人だと言うときに、纏めて考えられているってことは絶対にありません。皆、主イエスに名を覚えられている人々が、30人集まっている。100人集まっている。その意味ではその尊さは、変わりがありません。そして、教会に生きる者は、だから、互いに名前を呼び合うことをこそ大事にするのです。主イエスが呼んでいてくださる名前を、私どもも疎かにすることはできない…

 主イエスが、“わたしが良い羊飼いだ…”と名乗りをあげられたのは、まさに、9節の「わたしは門である」というのと、同じことを語っていると、言うことができます。この言葉をなお、聖書に即して語っているだけではなくて、併せてこういうことを想い起こしてくださってもよいと思います。

 ヒットラーが、ドイツを支配していた時代、ドイツのキリスト者の中でこころある人びとは〈ドイツ告白教会〉に属し、このヒットラーと敗戦のときまで戦いました。1933年、ヒットラーが台頭して間もなく発表された、通称『バルメン宣言』と言われるものがあります。その最初のことば、これは特にすばらしいものです。

 私たちのために、聖書に証しされている主イエス・キリストこそ――私たちが聴くべく、また、生きているときにも死ぬときにも信頼し従うべき、唯一の神のことばである。

 聖書に、私たちのために証しされている主イエス・キリストという方がおられる。その方こそ、私たちがいつも聴かなければならない神のことば。そして、生きているときにも死ぬときにも、これに信頼し、従うべき唯一の神のことば――。ヒットラーに捕えられていつ殺されてしまうかわからない、そのいのちの危機にさらされる。そういうハッキリとした現実において語られたことばです。“これによって死ねるんだ…”と。

 バルメン宣言はその冒頭で、ヨハネ福音書の第14章にある、「わたしは道であり、真理であり、命である」という、みことばをまず掲げます。その第14章に続けられているのが、この第10章9節の、“わたしは門である”というみことばなのです。そして、そのふたつに導き出されるようにして、先ほどの信仰の言葉を語る。私は、『バルメン宣言』を手にとって読むたびに、この引用にとてもこころ打たれます。

 ヒットラーは、主イエス・キリストという門を通らなくても救われる…”ということを言ったのです。告白教会に集まった人たちは、“そんなことはない”と、“あなたの語るところに真理はない…”と言ったのです。ヒットラーの考えに迎合した“ドイツ・キリスト者”という、名を帯びた人びともいました。このひとたちは、ヒットラーの考え方を教会の中に引きずり込んだ。“ここに門がある”と、とんでもないことを言い始め、“このひとのことばを聞いていれば、生きていける”と言って間違った羊飼いを立てようとした。『バルメン宣言』は違う… と。わたしは門だ… と言われた方はただひとり。私たちのために聖書が証ししている、主イエス・キリスト。生きているときも死ぬときにも、この方にのみ、信頼し、この方にのみ、従う――。

 もっと遡りますと、あのルターが改革の運動を始めて間もなく、彼が言い出していた新しい福音理解を巡り――詰まるところ聖書をどう読むか、という論争であったのですが(ハイデルベルク討論)――そこで、ルターが大切な言葉として引用したのがこの、“わたしは門である”という、聖句でした。「主イエス・キリストこそが門である。この方を通って入る者は救われる ここを通る以外に救いはない…

 ルターも、この門を通ろうと――。そっちに行ったらいけない、あっち行へってもいけない。“わたしは門だ”と言われた、まことの良き羊飼い、主イエス・キリストのお言葉を、正確に忠実に聴こう 私のために、命を捨ててくださった救い主の声を聴こう その声を聴き分けよう あなたがたは、このお方の声を、聴き損ない、聴き間違っている。もう一度よく聴き分けてみようではないか――。そこに論争が生まれた。

 この聴き分け方を間違えると、主イエスの言葉を聴きながら、なぜあなたたちは悪魔の声に耳を貸すのか、などと言うことになるのです(20節)。とんでもないことです。しかし、そのような、信仰の戦いは、事実、あるのです。“悪霊に取りつかれた人にこんなことを言えるはずがないじゃないか… ”と、主イエスの、声を、ハッキリ聞き分けることのできた人びとは、そのように応えることができました(21節)。

 父なる御神。戦いがあります。戦いのさ中で、主イエスの声が聴こえなくなる、誘惑があります。試練があります。私どもを、憐れんでくださり、いつもみ言葉を聴かせてください。いつも御霊を注いで、“まことの羊飼い…”“まことの門” そう言って、名乗りを上げてくださる、主イエスの声を聴き、それに、お従いすることができますように。まことの羊飼い、主のみ名によって祈ります。