使徒言行録 第17章22-31節  Ⅰペトロ第3章13-22節  ヨハネ第14章15-31節

 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。 (詩編 / 第51編12節)

 ダビデは告白します。神よ私のうちに、清い心を造ってください、いや、あなたが造ってくださるのだ、と。ここに、“霊(=スピリット)”という字が幾度も出てきます(12-14節)。そうです 私たちが一週間の間、一ヶ月、あるいは一年、もっと長い間に、涸れ果てて行きそうになるスピリットを、神がもう一度新しくしてくださる ですから私たちは、礼拝に来る毎に――自らを開いて神に私たちの霊を、こころをさし出すのです。神よ、どうかあなたがわたしを造り変え続けてください…

 それは、ゆっくりとした変化かもしれない。しかし必ず、神が私を清いこころに造り変え続けてくださる。その望みに私たちは、いつも、いつでも、どんなときも、いつまでも生きている。どうしてそのように信じるのか。それは何よりも、主イエス・キリストが御約束くださっているからです。主イエスが聖霊について集中してお話になるのは、きょうの日課、第14章の15節からです。主イエスはおっしゃいました。

 この世、イエス・キリストを知らない者たちはもしかしたらば、「この霊」と言ってもちっとも分からないかもしれない。いったい何のことか、と。けれども、あなたがたはこの霊を知っているはずだ、とおっしゃるのです。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)

 わたしたちは、主に従う者、洗礼を受けたキリスト者です。けれど、帰ったらば、家に違う妻がいるということはありません。子が学校に、自分が会社に行って、教師や上司が交代しているわけではありません。山積みの仕事が、書類が全部片付いているということもない。自分がまた、洗礼を受けたらイライラすることがなくて、優しくなっていることもないでしょう。試験前に、受験生の記憶力が急に良くなって、希望の学校に必ず受かる…残念ながらそうはいかないことがある。確かに洗礼を受けてもガラッと変わらないかもしれない。けれども、この聖霊は私たちの内に一緒にいてくださる

 教会に来たからこそ私たちは変わった 相変わらず、歎きは去りません。けれども、その中にもどこか、安心しているところが生まれているのではないでしょうか。相変わらず、怒りは去りません。けれどもその後、もう一度その怒りが本当に正しかったかどうか、そのことを確かめながら、祈ることができるようになったのではないですか。私たちの日常生活は変わりません。けれども、手にしたお金の使い方、人生の選び方について、私たちは変わり続けているのではないでしょうか。それは、小さな小さなものかもしれない。けれども、主イエス・キリストが、永遠に私たちと一緒にいるようにしてくださる、その方を送ってくださるとお約束くださったのです。私たちはその教会の中に生きている。

 聖霊を信じる――。それは、私たちの中に起こり始めている神の新しい業を見つけるということです

 そして、聖霊の働きは、主イエスの語られたことを〈思い起こさせてくださる〉ことだと言います(26節)。

 憎しみに燃えてしまったときに、「敵を愛しなさい」とおっしゃった主イエスの言葉を想い起こすのです。ほんとうに疲れ果ててしまったときに、「誰でも重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という主イエスの招きを想い起こすことができるのです。悲しみがこころを去らないとき、「悲しんでいる者は幸いである」と、またこの世にある不正や暴力に対して臆病になり始めているときに、「平和を実現する者は幸いである」という主イエスの祝福を想い起こすことができるのです。こころが怯えているときに、「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」という主イエスの宣言を、死の前には、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という慰めと希望を――。私たちは、いつも、いつでも、どんなときも、主イエスの言葉を想い起こしながら生きることができる…

 主イエスは、聖霊の別名が“弁護者(ギリシャ語/パラクレートス)”だともおっしゃいました(同上節)。

 パラというのは「傍らに」という文字です。クレートスというのは――「エクレーシア(教会)」に似ていますけれども――「呼ぶ」という言葉です。「エク」というのは外、「クレーシア」は「クレートス」と同じで「呼ぶ」。私たちは、こっちへ来い、と外から呼ばれて教会へやって来ました。同じように聖霊のことをパラクレートス(傍らに呼ぶ)、主イエスはそういうふうに呼ばれたのです。私たちが助けてください、と呼ぶと、聖霊は傍らに来てくれるのです。そして、パアッと抱き抱えてくれる。だから、このパラクレートスは、助ける方、慰める方、励ます方とも訳すことができます。裁判で、それこそ告発されて、自分が無罪だと確信している時に独りで戦うこと、こんなに心細いことはない。助けてくれ… と言うと、弁護者が飛んで来てくれるのです。それだけではありません。私たちが呼ぶだけではない。聖霊の方が私たち呼んでくださるのです。「わたしの傍に来い神が呼んでくださる。そして私たちは、自分の生活の外側に、「エク」、外に出て来て、神の声を聴き続けるのです。そして、聖霊を受けた者に対して、主イエスは、平和を与えてくださる。傍らに立ち、平和を与えてくださる(27節)。しかし同時におっしゃった。「心を騒がせるな。おびえるな」。

 私たちは、時に、こころを騒がせ、怯えながら生きます。けれども、それは、恐れることじゃありません。むしろ、私たちがこころを騒がせなくなり、怯えなくなった方が心配です。それは、自分が安心できる中に座っているからです。この世に生きる限り、私たちは、戦いが続きます。何故私たちが、家族のことや、仕事のことや、あるいは、この日本や世界のことを想う度に、悲しみに暮れこころが騒ぎ怯えるのか――。愛したいからでしょう…!? 平和を築きたいからです。違うでしょうか――。私たちが、様々なひととの関係に傷ついたり、震えたりする。なぜか、愛したいからです。赦したいからです。むしろ私たちが恐れるべきは、そのようなものを前にしてもこころ騒がせなくなることです。怯えなくなることです。もうこの時代は変わらないと思ってしまう。家族のことも人間関係も職場のことも、色々なことがもう変わらないと思ってしまう時に、私たちは、ちっともこころ動かさなくなる。違うのです――。主イエスに従って生きる限り、私たちはこころ騒がせる。怯える…。けれども、私たちは同時に、この世が与えるような平和ではない平和を知っているのです。それは、心を騒がせていても大丈夫だということです。怯えていても大丈夫だということです。

 そう、私たちは、怯えます。心を騒がせます。しかし、愛する教会共同体、神の家族の皆さんそんなことで主イエスの祝福は一つもピクとも致しません。私たちが希望を失うこともあるでしょう。家庭で、職場で、学び舎で、上手く行かないことがあるでしょう。小さなことでガタガタ震えてしまうことがあるでしょう。しかし、愛する教会共同体、神の家族の皆さん そんなことで主イエスの祝福は一つもピクともしない。主イエスが、世の支配者が来てもわたしをどうすることもできないとおっしゃる方が、招いていてくださるのです。「さあ立て ここから出かけよう」(31節)。――私たちが、今日もここでいただく聖霊は、死によって、終わった聖霊ではない、暴力によって封じ込められた聖霊ではありません。幾度も、幾度も生き続けてきた。そして教会を、二千年のキリスト者たちを生かし続けて来た。その、多くの人びとの言葉、告白に合わせながら、私たちも今日、そっと、しかしハッキリ口にするのです。我は聖霊を信ず…