自分の十字架を背負って

エレミヤ第15章15-21節  ローマ第12章9-21節  マタイ第16章21-28節

 聖書を読むというのは、聖書の中に、自分の素晴らしさを、自分がどれほど値高き存在であるかということを、見出すということだ――。ある牧師・説教者が、そういうことを言いながら、こう続けています。もし、我々のいのちの重さを天秤で量ろうとしたらどういうことになるだろうか――。つまり片方の皿に自分のいのちを乗せてみて、さあ反対側の皿に何を乗せたらこれが釣り合うか、というときに、全世界を乗せてもあなたのいのちの方が下がってしまうんだ… と(加藤常昭『聖書の読み方』)。

 今日の主イエスのお言葉、第16章26節を、この天秤の譬えに則して考えるなら、自分の命を買い戻すのに、全世界をもってしてもまだ足りない、ということになる。しかし、私どもは知っているのです。命を買い戻すなどということは、どうしたって我々の手に余ることを。たとえ全世界をもってしても、たったひとりの、愛する者の命をさえ、私どもに買い戻すことは絶対にできないという、悲しく、辛く、厳しい現実を――。

 けれども私どもが悟るべきことは、「あなたの命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。そんなことを、我々は一度も考えたことがなかったとしても、神は最後まで諦めることなく、最後まで、悩み抜かれたのです。そして十字架につけられた主イエス・キリストの悩みというのは、“どうしたらこのひとの命を買い戻すことができようか――”この神の悩み、そのものであったのです。神は、私どもの命を買い戻すために、御子・主イエスの命をもってしても、これを買い戻したかった。“代価”というのはそういうことです。

 今日の受難予告、「主よ、とんでもないことです そんなことがあってはなりません」と激高した一番弟子のペトロに向かって、「サタン、引き下がれ…」と一喝なさった主イエスのお言葉は――ペトロはおそらくもう、頭の中が真っ白になってしまったのではないかと思うのですが――やはり、最大級に厳しい言葉です。ただし、この「引き下がれ」というのは、「わたしのうしろに下がれ」という意味で、続く24節の「わたしについてきたい者は」というのも、「わたしのうしろに来たい者は」ということ。そう、主イエスの後ろです。「ペトロよ、あなたが立つべき場所はそこじゃない」「立つべき場所はわたしの後ろだ。そして、ちゃんと、後ろからついてくるんだ… 自分を捨て、自分の十字架を背負って――」(23-24節)。

 十字架というのは、単純に言って処刑の道具ですから、“自分を殺してわたしに従いなさい”と言ってもよい。そしてこれは「自分の十字架」とあるように、他の人は関係ないのです。しかもそこで、何か自分なりに苦しい思いをしたら、それが十字架なのかといえば――たとえば家族が病気になったり、自分のできの悪さや、おぼつかなさを思ったりして、“ああ…これが今の自分の十字架なのかな”というのは、ここで言われる十字架とは、ちっとも関係がありません。求められているのは、〈主に従う〉ことだからです。

 たとえば家族が病気になった。そのときに、主イエスに従い、“自分を捨てるんだ”という決断をするならば、その家族との接し方だって、変わってくるだろうと思う。たとえば、自分はどうもできが悪い。そういう嫌な自分をそれでも何とかして取り繕ってどうだ、俺はこんなことが、あんなこともできると、それこそ“自分の命を救いたい者はそれを失う(25節)”という、主イエスの言葉を地で行くような姿を見せるのではなくて――できの悪い自分だけれども、主イエスの後ろに立ち、ただ、あるがままの自分を献げる生活をするならば、そこにおのずと、そのひとだけの麗しさ、美しさが、明らかになってくるのだと信じます。

 そしてほんとうは私どもは既に、気づいているのです。人を愛することは、既に、十字架を負うことです。自分を捨てることなしに人を愛することはできません。なせなら、愛するとは、自分に罪をおかした者を、赦すことだからです。自分を捨てない程度になら愛しましょう、自分を十字架につけない程度になら赦しましょうというのは、結局はこのお方から何にも学んでいないということにしか、ならないのです。

 自分を捨てることのできない夫は、ほんとうに妻を愛することができないし、親が子どもを育てるというときにも、実は、その親が自分を捨てるのではなくて、自己実現の虜になっているのでしかなかったとしたら、その結末がどんなに悲惨なものになるかということは、そんなことわざわざ教会で説教聴かなくたって、我々はよく承知しているのです。けれども、そういうときに主イエスの声が聴こえます。

 自分のいのちにしがみつく者は、これを失う――(25節・訳 柳生直行/キリスト者・英文学者)。

 何だかとっても、よくわかります。自分の命にしがみつくな――それは、滅びの道でしかないんだ そしてこの言葉がほんとうに意味をもつのは、これが、主イエスの言葉であるからでしか、ありません。私のような者がそう言っても、何の説得力も持ちませんが、そう言われたのが、あの主イエス・キリストであると気づくときに、この言葉は新しい響きを持ってくると思うのです。

 今日、そのような主イエスの言葉を一番前で聴くことのできたペトロは、後から振り返って、主イエスのこの「(自分を)捨てる」という言葉を想い起こしたとき、もしかしたらこういうことに気づいたかもしれない。ここで「捨てる」と訳されている言葉は、新約聖書では、今日のこの箇所と、もう一つの場面にしか出てきません。それは、後にこの主イエスがエルサレムで捕えられ、裁判を受けておられるときのこと。ペトロがふいに、そばにいた人から“あなたもあのイエスの仲間だろう!?”と詰問され、“わたしはあんな人のことは誓って「知らない」と言った”。新共同訳聖書が、主イエスの十字架へと至る一連の場面で(マタイでは特に第26章34,35、72,74節)「知らないと言う」と訳した言葉が、ここで「捨てる」と訳されたのと同じ言葉なのです。主が言われました。ペトロよ、あなたは今夜のうちに、三度、わたしを捨てるだろう。

 ――つまり、ペトロは自分を捨てる代わりに、自分の命にしがみついて、主イエスを、捨てたのです。

 しかしそこで、ペトロにとって幸いであったのは、彼が、なおそこで主イエスのうしろに、立ち続けることができたということ。捕らえられた主イエスの後ろから遠く離れてついていき、不当に裁かれている主イエスのお姿を見ながら、“どうしてこのひとは何も口答えなさらないんだろう…”ということを訝しく思いながら、その後ろ姿をずっと見ていたのです。ところが思いもよらない成り行きで“いやいやわたしはあんな人のことは知らない”と言ったときに、ふいに主イエスが、後ろを振り返って、ペトロを、見つめられました。そのときにペトロもようやく悟りました。自分のいのちを買い戻すために、このお方が、今、何をしてくださっているのか――。そしてペトロは男泣きに泣いて、悔い改めなければなりませんでした。

 けれどももう一度申します。ペトロにとって幸いであったのは、これらはすべて主イエスのうしろで起こった出来事であったと、いうことです。主イエスのうしろで、主イエスの背を見つめながら、ペトロは自分の命の重さを、学び始めることができました。主イエスの命によってしか、わたしの命の代価を支払うことはできない――。それほどの、自分の命の重みを、私どもも、主イエスの背を見つめつつ、知ることができるのです。そして私どもも、今から後は、このお方についていきたいと願います。このお方の後に、従っていきたいと祈ります。このお方の愛を知ったならば、もう私どもも自分にしがみつくことはありません。主イエスに買い戻していただいた命を正しく生かすために、私どもが歩むべき道はただ一つ。この主イエス・キリストというひとりのお方の後ろに、立ち続けるほかないのです。主イエスの背を見つめて――。