見よ! 神の小羊

 イザヤ49章 1~7節  Ⅰコリント 1章1~9節  ヨハネ 1章 29節~42節

 今日の福音、とりわけ第1章35節以下には、主イエス・キリストの最初の弟子となった人々のことが語られています。二人の人がここで、主イエスの弟子、つまり主イエスに従って行く者とされました。共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)とは異なる、福音書記者ヨハネ特有の《弟子の召命》です。

 36節に、洗礼者ヨハネが「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」とあります。ヨハネが主イエスのことを「神の小羊だ」と語ったのを聞いて、二人の人――この二人は、元は洗礼者ヨハネの弟子であったのですが――主イエスの弟子となったのです。洗礼者ヨハネは、自分の後に現れる救い主の備えをすることを自らの使命としていました。だから彼は主イエスと出会うと、この方こそ世の罪を取り除く神の小羊だ、と語った。つまりヨハネは自分の元に集まって来た人々に主イエスを指し示し(証しをし)、人々が主イエスの弟子となることをこそ願っていたのです。実際そのようにして元々はヨハネの弟子だった人たちが主イエスに従って行くようになったのです。  

 このことは、主イエスを信じて従っていく弟子となる、つまり信仰者となることにおいてわたしたちに起ることでもある。愛する神の家族、礼拝共同体の皆さん これは、わたしたちの物語、わたしたちに起こっている出来事ですわたしたちも、元々主イエスの弟子だったわけではありません。何か別のものを信じていたり、依り頼んでいたのです。特段、別の神を信じ、別の宗教・思想の信者だったということではなくとも、人生において頼りにしていたもの、これこそが肝腎だと思っていたものがいろいろあったのです。しかし、ある時私たちは、「イエス・キリストこそ神の子であり、私たちの罪を取り除き、赦してくださる救い主だ…」と語る誰かの言葉を聞きました。教会の礼拝、説教において語られるのを聞くという場合がいちばん多いかもしれません。あるいは教会へと誘ってくれた知り合いの信仰者から、「主イエスこそ救い主だ」と聞くこともあるでしょう。主イエスのことを語る誰かの言葉を聞くことを通して、私たちは主イエスを知るようになり、信じるようになったのです。最初の弟子たちも、洗礼者ヨハネの言葉によって主イエスを知り、従う者となった。ヨハネ福音書はこの場面において、主イエスの弟子となることにおいて私たちに起ることを見つめ、描いているのです。

 ヨハネが「見よ、神の小羊だ…」と言うのを聞いただけでどうして彼らはイエスに従っていくことができたのだろうか、という疑問もここでは必要ありません。福音書記者ヨハネは、わたしたちが主イエスに従う信仰者となるのは、主イエスこそ救い主だ、という証しの言葉を聞くことによってこそ起るのだ… ということを語っているのです。

 そこにおいてむしろ見つめるべきことは38節の「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた」ということです。主イエスを証しする言葉を聞いて、主イエスに従って行こうとする者に、主イエスはお尋ねになるのです。「何を求めているのか」と――。わたしたちもこの問いを受けます。主イエス・キリストを信じて生きていくことを多少なりとも考え始めると、自分は主イエスに何を求めているのだろうか、何を得たいと願ってイエス・キリストのもとに来ているのだろうか、という問いが生じるのです。最初のうちは、病気の苦しみから救われたいとか、あの悩み、この苦しみを解決してほしい、ということを願って教会に来るかもしれない。しかし次第に気づくことは、そういう悩みや苦しみに対する直接の解決が与えられるわけではない、ということです。信じたから病が治るわけではないし、人間関係が急に改善されるわけでもない、教会というのはそういう直接の解決を与えてくれるところではないことが分かってくるのです。その時に、だったらもう来ても仕方がないと思ってやめてしまうのか、それとも、自分が最初に求めていたのとは違うけれども、何かもっと大切なものがここで与えられるのではないかと感じて、それが何なのかを求めていこうとするのか、そこに、信仰に至るかどうかの分かれ道があることを、わたしたちは知っています。だからこそ、わたしたちは毎週毎週、この礼拝へと戻ってくるのです。

 「何を求めているのか」という主イエスの問いを受けた彼らは、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。福音書記者ヨハネがこの「泊まる」という言葉に込めた想いは、実に象徴的です。この言葉はほかに、「つながる、留まる」と訳すことができ、同じヨハネの第15章、ぶどうの木とその枝の譬えで「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とある主イエスの言葉、その「つながっている」がこの「泊まる」という言葉なのです。さらに第15章の10節には「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とあります。その「とどまっている」も同じ言葉です。このようにこの「泊まる」は、主イエスが父なる神の愛の内にとどまっており、私たちが主イエスにつながっており、その愛の内にとどまっているという、私たちと主イエス、そして主イエスと父なる神の関係を言い表す大事な言葉なのです。

 そしてこの問いに対して主イエスは「来なさい、そうすれば分かる」とおっしゃいました。これは直訳すれば「来なさい、そしてよく見なさい」となります。私が父なる神との関係において、またあなたがたとの関係において、どこにとどまっているのか、何をしているのか、つまり私はどのような救い主であるのか、そのことは、私のもとに来れば分かる、だから私のもとに来なさい、そして私の歩みをよく見なさい、と主イエスはおっしゃるのです。それはわたしたちに対して語られているみ言葉です。主イエスは私たちに、「わたしのところに来なさい、そしてあなた自身の目でよく見なさい、そうすればわたしのことが分かる、と言っておられる、つまり私たちをご自分のもとへと招いておられるのです。  

 この主イエスのお言葉を受けて彼らは、「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」のです。主イエスについて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見る――私たちに求められているのもそのことです。主イエスに従って行くとか、弟子、信仰者となって生涯を生きて行くというようなことは、最初からそういう決心をして歩み出すようなことではありません。さらにそれは、私たちの決心や決断によって実現するようなことでもないのです。私たちは、主イエスから「来なさい、そして見なさい」と語り掛けられて、主イエスのあとについて行って見るのです。そしてそこで主イエスの歩みを見、み言葉を聞くのです。そのことの中でこそ、「イエスのもとに泊まる」ということが起っていきます。ぶどうの木である主イエスに私たちがつながって豊かな実を実らせていくことが、また主イエスの愛の内にとどまり、神の愛を受けて生きることが起るのです。それは私たちが自分の決心や努力によって実現することではなくて、私たちをご自分のもとに招いてくださった主イエスの恵みによって与えられていくことなのです。何と有り難く、幸いなことかと思います。