言葉の重さ

申命記 第30章15-20節    Ⅰコリント 第3章1-9節   マタイ 第5章21節~37節

 あるひとが教会のことを〈誓約共同体〉だと言いました。なるほど、と申しますのは、教会というのは、あらゆる時に誓いを立てるからです。そういう意味では、教会というのは、日本の社会の中で独特な存在かもしれません。先週は、役員の就任式を行いました。皆さんにも立っていただいて、この役員たちを祈りのうちに支える、と誓約をしていただきました。あるいは牧師の任職式の時もそうです。私も皆さんの前で誓約を致しました。その時その場におられた方々は、やはり誓約をなさった。中でも、洗礼は、まさしく誓約式です。自分が“主イエス・キリストに生涯従う”と、洗礼を受けた者たちはここで誓約をしたのです。

 誓いを立てたということによって私たちは結びつけられている。しかも、それだけです。そういう意味では、ひじょうに不思議な共同体だと思います。いわゆる社会的な誓約というのは、国が立ち入ってきたり、厳密には様々に細かなことが絡んできますけれども、信仰、教会。これはまさしく誓約だけなのです。

 「一切誓いを立てはならない」という今日の主イエスの言葉――。今申し上げてきた流れで言うと、不思議に思うのですが、主イエスは、初めからその言葉をおっしゃったんじゃない。「またあなたがたも聞いているとおり昔の人は…」と、当時の人々が、伝えられて来たことを守っていたその言葉を引き受けながら説教を展開して、こう言われたのです。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」(コヘレトの言葉 第5章、とりわけ3~5節参照 旧約1039頁)。

 そこで、当時の人々は、神に向かって誓いを立てる代わりに、いわば言い逃れをしながら…誓いを立てたのです。神にかけて祈る、それは神に申し訳ないから、たとえば天にかけて誓うとか、地にかけて誓うとか、エルサレムに対して誓うとか、「自分の頭にかけて誓う」。そういう言い方をしたようなのです。これは、神に向かって誓っているのではないから、その誓いを果たせなくても仕方がないと考えた。

 けれども主イエスは、そのように言葉に対して言い逃れをしながら生きてゆく者を、まるで追い詰めるような言い方をなさる。“天にかけて誓う”。それは神に誓っていないから破ってもいいと思っているかもしれないが、天は神の玉座だ。“地にかけて誓う”。それは神に誓ってないから、私はたまたまそのことを間違ってしまっても仕方がないと言うかもしれないが、それは神の足台だ。“エルサレムにかけて誓う”。それは、大王である神の都である。そして、「あなたの頭にかけて(=自分を信頼して)誓う」。しかし、その頭自体も、神が御支配くださっている。自分の髪の毛一本も白くも黒くもすることができないじゃないか…。

 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。

 『然り、然り』、その意味は、“そうです”“はい”と言ったらば、その言葉に“はい”と言いながら、それを責任を持って生きて行くということです。“いいえ”と言ったら、その“いいえ”と言った言葉を貫きながら生きて行くことです。しかし、そこにわざわざ神の名前を持ち出すな、と主イエスはおっしゃるのです。わざわざ誓いを立てるなどというような大袈裟なことをするな、と。そう、その通りです。

 わたしは、実に、わたし自身に対する主イエスの言葉だと思って、正直とても辛く、途方に暮れる想いになりました。友に対して、私は、様々な約束を裏切ってきた、妻に対して、自分の言葉に誠実でなかったことの多い、夫でもあります。親に対しても。子どもに対しても、そして、自分自身に対しても――。わたしの、私たちの悲しみは、人の言葉を信用できない、そういうところにあるのではありません。自分の言葉を信用できないというところにこそ、あるんじゃないでしょうか。そうです。私たちは、日常の言葉が不真実であれば不真実であるほど、神に向かって誓うのです。違うでしょうか――。様々な誓いを立てて、私たちの日常の姿を、日常の言葉を取り繕うのです。しかし、主イエスは、日常の言葉の、真実を求めていてくださるのです。この山上の説教、第5章は、こういう言葉で終わります(第5章38節)。

 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 主イエスは約束していてくださるのです。「あなたも、天の父のようになることができる…」とおっしゃっているのです。その、完全になることについて、先ずそれは私どもの言葉遣いから始まるのです。私どもが、真実な言葉を語ることから始まる。日常の言葉が、神を神とする言葉になる――。

 私どもが祈る時に、最後に「アーメン」と申します。「本当にその通りです」、そういう言葉です。「今祈ったことには嘘偽りがない」、そういう言葉です。私は、ある時、『ハイデルベルク信仰問答』という小さな信仰の書物の、いちばん最後の部分に、こういう言葉を発見して、ほんとうに驚いたことがあるのです。

問:「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。答:「アーメン」とは、それが真実であり、確実であるということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めているとわたしが心の中で感じているよりも遥かに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。

 興味深いことです。私たちが「アーメン」と言う。その時に、私は、自分の中で 心の中で、おぼつかなさがあるのです。こんなことを祈って、この一週間、歩んでゆけるのだろうか。こんなに何度も、何度も同じこと同じことを祈り続けていて、神は聞いてくださるだろうか…。そうして私たちの心の中は「アーメン」と言いながら、自分の中に確実さを持たずに揺れる…。けれども、“わたしが心の中で感じているよりも遥かに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれている 主イエス・キリストがわたしの心の中よりもずっと確実に、聴いていてくださるのです。そして主イエスが言ってくださるのです。「アーメン

 私たちの中にどんなにおぼつかない思い、また幾度も幾度も繰り返すような…忸怩たる想いで祈る祈り――しかし、その声を、主イエスが聴いていてくださって、天からわたしたちに声を降り注いでくださるのです。「アーメン。確かにあなたの言葉を聴いたあなたの願いを聞いたあなたの誓いを聴いたそして、私どもがどんなに不真実な言葉で祈ろうとも、神がそれを聴き続けていてくださる。

 「洗礼を受ける」、それは、神に「アーメン」と言っていただくことです。もしも洗礼の日の誓いを自らの力で守らなければならない、そんなことであったらば、私たちの誰一人として、教会に来続けることなんか出来ない。私たちの幸いは、わたしたちの不確かな誓約を、不確かな誓いを、主イエス・キリストが“アーメン”と聴き続けてくださって、洗礼の日に、“あなたを死ぬまで”いいえ、“天の国まで導く”と御約束くださったその自分の誓いに、誠実でいてくださるからです。

 私ども、その、イエス・キリストの誠実の中で、私たちの中にある不真実、不誠実、弱さ。それらに逆らって、戦ってゆくのです。そうでなければ、私どもはここで誓約することができない。

 「アーメン確かに その通りだ…

 主イエスは私どもの言葉を受け入れてくださっている。その、言葉の中で、私どもも、切れ切れに、神に願いをかけるのです。主イエスが見ておられるような私、夢見てくださっているような私になりたい――。

 そのようして、生きて ゆくのです。