使徒言行録  第7章55-60節    Ⅰペトロ  第2章2-10節    ヨハネ  第14章1-14節

 神の国の、王子、王女の皆さん――。今日ここで礼拝ができますことを、そして、それぞれの場で主イエスを仰いでいる神の家族のことを覚え、とても嬉しく思います。神の国の、王子、王女の皆さん――。

 わたしが私淑している、ルードルフ・ボーレンという牧師がおられます。もう、お亡くなりになったスイスの方ですが、この方がある日本の教会に招かれて、説教なさったときに、皆を前にして挨拶なさったんだそうです。神の国の、王子、王女の皆さん――。

 きっと皆、笑ったと思います。嬉しかったでしょう。それでも英語でも、「レディース&ジェントルメン…」。そのように呼びかけることがあるようです。「ここにお集まりの、淑女・紳士の皆さん…」。

 それになぞらえまして、神の国の、王女の皆さん、王子の皆さん――。今、それぞれの場で神を仰いでおられる、王子、王女の皆さん――。

 そういうふうに語りかける。このボーレン先生の説教集は、翻訳で読むことができますけれど、どの説教を読んでも、ほんとうに喜びに満ちた説教です。たとえばこんな話が出てくるのです。

 ヨーロッパのある街に、宣教師記念館がある。その街から出て行った宣教師たちをそこで、記念する、そういう資料が置いてあるんだそうです。そこにこういう一枚の絵がある――。

 中国の高級官僚、高級な役人が、紫色の衣を着て聖書を覗いている。するとその聖書には、物乞になった姿で映っている。そう、どんなにこの世で立派な目に映る人であっても、聖書はその人を罪人として描き出すのだというのです。しかしボーレン先生はその話をしまして、こう続けるのです。

 確かにそれは聖書の一面だ。聖書が語る一面。しかし一面にしか過ぎない。聖書が語るのはもっと喜びに満ちたもうひとつの側面がある。それは、どんな乞食でありましても、物乞いでありましても、聖書をのぞき込むとそこに、高級な役人として紫の衣を着た者として映し出されている――。神の国の王子、王女としてわたしたちは、神のまなざしの中に映っている…

それは、聖書の言葉にあることです。今日の第二日課の中の、ペトロの手紙一 第2章9節。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 このペトロの手紙の一は、洗礼を受ける前の人の教育のために、あるいは洗礼を受けて間もない人たちの教育のために用いられたとよく言われます。洗礼を受ける前あるいは受けた直後、あなたは自分を見る目が変わるんだって言うんです。選ばれた民です。神さまがお選びくださった。王の系統を引く祭司、王族です。わたしたちの国の言葉でいえば、〈皇族〉と言ってもよいかもしれません。聖なる国民、神さまがと特別にお選びになった者――。そして、お前はわたしのものだと、神さまがご自分のものとして選び取ってくださった民だって言うんです。神さまは――不思議なことに、こんな私たちでも選んでくださって、御自分の子としてくださって、御自分の民としてくださって、御自分が責任を持ってくだって、そして神さまの歴史を続けようとしていてくださるんです。

あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民だ…

その、神が選ばれた祭司、聖なる国民、皇族とされたわたしたちが、今日も歩くのです。歩き続けるのです。主イエス・キリストという、“救いの道”を

わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ第14章6節)。ここで、主イエスは、道の“話”をなさったのではありません。道に“ついて”教えたり、説いたりしておられるのではない。すぐれた道徳の教師とか宗教の教師というのは、人の 生きるべき道を教える。道徳――道というふうに“道”という文字があります。この道徳という言葉と、ほぼ同じ意味として用いられるのに、“倫理”というのがある。この倫理の“倫”という字にも、道という意味が込められています。道徳とか倫理って言うのを、“人の踏むべき道”と言い替えることもあります。多くの教師は、道に“ついて”教える。道に“ついて”語る。ここで、しかし、主イエスは、わたしが道だとおっしゃる。わたしこそが道だ… とおっしゃる。宣言なさっているのです。

 道というのは、変わりません。400年余りを経た、今日、東海道の道は、残っています。京にも街道筋に古道が残っていますが、周りの建物や景色が変わっても、住まう人びとが移り変わって行こうとも、道自体は変わらない。そして、道は、歩くことでわかります。地図の上で道を辿って、ある程度の予測を立てながら、わかったつもりで歩き始めて、わからなくなることがしばしばあります。道は、歩く中で、その道の現実を、味わい知ってゆく――。主イエスは弟子たちに、わたしが道だ… とおっしゃっています。

 主イエスは変わらないのです。変わることのない、〈救いの道〉です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙 第13章8節)。そして、この主イエスに信じて、ひとあし、またひとあしと踏み出してゆく。――主は私たちにおっしゃるんです。「歩いてご覧… 歩き続けてご覧… わたしが道であり、真理であり、命そのものであるのだから」。道を踏みしめ、歩き続ける中で、このお方が真理であり、死を超える命であることを、ますます深く味わい知ってゆく――。

 使徒ペトロは、また神さまは、どうかこのことを忘れないほしいと、わたくしどもに願っている。どうか、どんなときも忘れないでほしい… あなたがたは、選ばれた民じゃないか。王族に属する祭司じゃないか。聖なる国民、神のものになった民なのだ――。そのあなたたちが、救いの道であり、いのちそのものであり、真理である主イエス・キリストを、今日も歩く。進み続けるのだ。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の、力ある業を、あなたがたが広く伝えるためだ…

 教会に生きる者は、祭司(祈りの人)として生きます。あなたがたは、王の系統を引く祭司――そして、既にペトロはこう言っていました。「聖なる祭司となって、神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(第2章5節)。わたしたちのことです。わたしたちのいのちを神に献げながら生きるんです。それが祭司の役割です。けれど、その生き方の何とすがすがしく、美しく、真実なことでしょう。わたしたちは自分の命を、自分の人生を、神さまに、人に献げながら生きていくことができる しかもそれは、若いときだけではありません。天へと召されてんでいくときもです。私どもが周りの者たちのために、祈りながら生きていくことができる。わたしたちの命というのは、用いるためにあるのです。人のために。そして、その中で最期まで、生き、死んでいくことができる。何という幸せなことかと思う。

 ペトロは誘うのです。忘れないようにしよう… わたしたちが祭司であることを忘れないようにしよう 祈り続けよう 忍耐し続けよう そしてこのわたしの小さな命、存在あっても、神さまのために、人のために用いるように、そのことを祈りながら生きよう と――。こうして、教会は歩み出すのです。