わたしは必ず帰ってくるから

イザヤ 2章1~5  ローマ13章11~14  マタイ 24章36節~44

 使徒パウロが書きました『ローマの信徒への手紙』の第14章7節以下に、これはわたしの愛唱の聖句であるのですけれども――こう書いてあります。

 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

 ここに私どもの生活の、根本的な土台というか、基本的な生活の姿勢が明らかにされています。

 わたしたちの生活には、主人がいるんだ… 一人で生きてるんじゃない。自分のために生きているんじゃない。生きるにしても死ぬにしても、わたしには、主イエスという、主人がいるんだ。わたしはそういう立場の人間なんだ――と。

 そこに特別の喜びが与えられるに違いありませんし、また、一種独特の緊張感もあるかもしれません。しかしそれは肩がこってしかたがないというような緊張感ではないと信じます。いつも、いつでも、その心の深いところには、わたしは、イエス様のものだ…  その確かな事実に根ざす、喜びがあり、感謝があり、いつもその心は深いところで、イエス様と結びついている。それが私どもに与えられた生活なのです。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん 今日、いくつかの譬え、ご自身の〈再臨〉の話を通して、主イエスが、ここで私どもに警告しておられることも、まさにそのことなのです いつの間にか私たちのこころが、主イエスとの結びつきを失っていないか。主人を待つ心の姿勢が失われてしまっていないか、と私どもを心配してくださっている。42節で、「だから目を覚ましていなさい」と言われます。目を覚ましていなさい――。いつの日あなたがたの主人が帰ってくるかわからないからである。

 この後に続きます第25章に、〈賢いおとめと愚かなおとめの譬え〉が出てきます。興味深いのは賢いおとめも愚かなおとめも皆、眠ってしまっていた、とそう書いてあることです。眠っているのです。眠っていながら目を覚ましているということがある――。寝ても覚めても生きるときも死ぬときもわたしは主のものであるという、根本的な支えがあるのです。

 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。しかし、わたしは必ず帰って来るよ…

 わたしは必ずあなたがたのところに帰ってくる、と主はここで約束してくださいました。そしてそれ以来教会は、すでに二千年の間、〈主の再臨〉を待ち続けて参りました。しかしまだ、何も起こりません。主イエスが、歴史の最後に来てくださる、その日まで私どもは、あと何年くらい待たなければならないのでしょうか――。今日読んだ最初のところ36節にありました。

 しかしそれがいつ頃なのか、実は神の子であるわたしも知らないんだよ(=「天使たちも子も知らない」)――。それはただ、父だけがご存じなのだ。

 これは主イエスの無知や無関心を意味する言葉ではありません。ただ、父だけがご存じであると、そう言われたのです。その日、その時は、だれも知らない。そんなこと知らなくったっていいじゃないか。すべての時は、最初から最後まで、父なる神が握っていてくださるんだ…

 それは、徹底的な信頼です。父なる神のご支配に、主イエスは、神の独り子としてまさに、幼子のような心で、信頼しきっておられたのです。そして私どもにも等しく、そのような幼子のこころを、お求めになったのだと思います。

 その日、その時は誰も知らない。そんなこと知る必要もない。必ず主イエスは帰ってきてくださる。わたしには主人がいるんだ… すべては、父なる神が支配していてくださるんだ…

 既に私どもの主なるイエスは、あの山上の説教において、父なる神のご支配の確かさを、丁寧に、教えてくださいました(第6章25節以下)。

 空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。天の父はこんな小さな鳥も養ってくださる。こんな小さな野の花も、こんなに美しく装ってくださる。まして、あなたがたのために、どんなに、丁寧に、考えていていくださっていることか――。そのあなたの父がすべての時を握っていてくださる。――そう言われたのです。

 そのように聴き取って参りますと、今日の43節以下の不思議な譬えも、理解できると思います。ここでは驚くべきことに、〈主の再臨〉が泥棒に譬えられています。しかし、理屈としてはお分かりになるだろうと思います。目を覚ましていないといつ泥棒に入られるか分からないから。それと同じように人の子は思いがけない時に来ると、言われます。

 逆に考えてみてもよいと思います。もしも、これは現実にはほとんどあり得ないことですけれども――泥棒がいつやって来るか、ちゃんと予告されている。何月何日あなたの家に入りますよ、と。もしそういうことになったらどうなるか。それに備えて防犯対策をして、さあ、泥棒が来るまであと何十何日…その時が来るまで泥棒のことはとりあえず忘れて、悠々と好きなように過ごすことができます。その時が近づいたら気をつければいいのです。

 それと同じように世の終わりが来るのが何年何月何日と分かっていたら、その年月を手帳に書き込んで、必要な備えをしたら、とりあえずそれまではイエス様のことなんかすっかり忘れて、そのときまでゆうゆうと好きなように過ごせばよいのです。神なんかいない、主人なんかいない、わたしの人生はわたしのものだという生活を、すればよい。だがしかし、私どもにはもうそんな生活をすることは不可能です。

 私どもは、この御方を、愛しているのです。この御方に、愛されているからです。

 どんなに眠りこけてしまった私どもの魂も、主イエス・キリストが、もう一度目覚めさせてくださると信じます。その御方の前で私どもも応えるほかありません。イエスよ、あなたこそわたしの主です…

 この、信仰告白を、今、新しい想いをもって、主の御前にお献げしたい。主イエスよ、私どもは、あなたのものです。もはや私どもの誰も、自分のために生きるものはなく、自分のために死ぬ者もいません。生きるにしても死ぬにしても私どもは、主のものです。有り難うございます。どうか私どものこころを、あなたの愛の内に、しっかりとつなぎとめてください。怖いことはたくさんあります。心配ごともたくさんあります。私どもの中にほんとうの愛がないことも、あなたはご存じです。けれどもそのような私どもの生活のすべてが、丸ごとあなたの愛の中にあるならば、私どもも希望を持つことができます。あなたこそ、私どもの主です。有り難うございます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。