今日のできごと
2016/12/7(水)

今日は祈祷会がありました。
ヨハネの黙示録の3章、ラオディキアの教会の個所から
メッセージでした。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
ヨハネの黙示録 3章20節
よく伝道集会などで引用される有名な箇所ですが
イエス様が、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」
と語られています。
ということは、イエス様が戸の外におられるということで
戸の内側、すなわち部屋の中にはおられなかった
ということになります。
この箇所は、まだイエス様を知らない人々に向かって
語られた箇所ではなく、ラオディキアの教会に向けて
語られた箇所です。
教会なのに、「イエス様が戸の外からたたいている」
何かおかしく感じられないでしょうか?
教会のメンバーの心の中に、イエス様がおられなかったのです。
イエス様を自分の心の外側に追い出してしまっている姿が
そこに見られるのです。
なぜそんなことになってしまったのでしょうか?
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。
何一つ必要な物はない』と言っているが、
自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、
目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
ヨハネの黙示録 3章17節
お金によって惑わされてしまっていることがわかります。
イエス様ではなく、土台をお金においてしまい、
イエス様を教会から見失ってしまっている姿がわかります。
経済的に豊かになることは素晴らしいことですが、
同時に大きな罠にもなり得ることがわかります。
どんなに豊かになっても、決してイエス様を見失わないでいる
これがとても大切です。
【今日の聖書】
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、
一方に親しんで他方を軽んじるか、
どちらかである。
あなたがたは、
神と富とに仕えることはできない。」
マタイによる福音書 6章24節