今日のできごと


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2018/10/28(日)



わたしはなんと惨めな人間なのでしょう

1.私は自分の望んでいない悪を行っている

 パウロは自身のことについて、こう語っています。

 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
 死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
 ローマの信徒への手紙 7章24節

 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と語っているのです。
 なぜでしょうか?

 わたしは、自分のしていることが分かりません。
 自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
 ローマの信徒への手紙 7章15節

 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
 ローマの信徒への手紙 7章19節

 善を行うことを望んでいるのにもかかわらず、善ではなく悪を行っていたからでした。

2.私は自分のしていることが分からない

 自分が望む善を実行せず、かえって憎んでいることをする自分について、パウロは、
 「わたしは、自分のしていることが分かりません。」とも語っています。
 あのパウロであっても、自分自身の内にある罪を制御することができなかったのです。

 罪を犯さないようにしようという意志はあっても、罪を犯してしまっていたのです。
 「罪を犯してはならないと思っているのに、また罪を犯してしまった!」
 「良いことを行なおうとしていたのに、またしてもできなかった!」

 「ああわたしは、自分のしていることが分からない。」というのです。
 パウロであっても、完全に罪を犯さないような生き方は不可能だったのです。

3.私はなんと惨めな人間なのか!

 だからパウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と語ったのです。
 そして「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と問いかけるのです。
 もし、ここで何の回答もなければ、絶望で終わってしまいます。

 「わたしはもうだめだ、罪のために死ぬしかない」で終わってしまうのです。
 「わたしはもうだめだ、死ぬしかない」で終わってしまったのが、
 あのイスカリオテのユダです。彼は、首をつって死んでしまったのです。

むすび.惨めな罪人を救い出して下さる救い主イエス・キリストがおられる!

 けれども死ぬ必要はないのです。救い主がおられるからです。
 その方こそ、イエス・キリストです。

 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
 ペトロの手紙一 2章24節

 キリストが私たちの罪を赦すために、十字架にかかって死んでくださったのです。
 そして完全な赦しを与えて下さったのです。
 彼を信じるものは、もはや罪に定められることがないのです。

 罪の赦しをいただいて、永遠の命に生きるようになるのです。
 ハレルヤ!
 
 【今日の聖書】
 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
 死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
 ローマの信徒への手紙 7章24節

 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
 このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、
 肉では罪の法則に仕えているのです。
 ローマの信徒への手紙 7章25節


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