悪魔のもたらす嘘「おまえはもうだめだ」
1.イスカリオテのユダは罪責感に苦しんだ
イスカリオテのユダは、どうして首を吊って自殺してしまったのでしょうか?
そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、
首をつって死んだ。
マタイによる福音書 27章5節
「イエスを裏切ってしまった自分はもうだめだ」と思ったからに他なりません。
イエスを裏切ってしまったという「罪責感」に囚われてしまい、
もう生きている資格はないと絶望し、自分で自分の命を絶ってしまったのです。
キリストがイスカリオテのユダも含む、全人類の罪を赦すために
十字架で死なれようとしていたにもかかわらず、それを知ることもなく、
犯してしまった罪を、自分自身でどうすることもできず、
もう生きている資格はないとあきらめ、絶望し
自分で自分の命を絶ってしまったのです。
永遠の滅びへと、落ちてしまったのです。
2.祭司長たちの所に行ったところで解決は得られなかった
罪責感にとらわれてしまったイスカリオテのユダは、
自分が金を受け取った、祭司長たちや長老たちの所に行きました。
そして彼らにお金を返して
「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言いました。
しかし、ユダに対する彼らの言葉は冷酷でした。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、
イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、
銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
マタイによる福音書 27章3〜4節
彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言ったのです。
「罪のないイエスの血を売り渡してしまった」と言われたところで、
彼らにとってのイエスは、神への反逆者であって単なる罪人の一人だったのです。
彼らは、イエスについて「彼は自分自身を神とする不届き者だ」としか
捉えていませんでしたから、
イエスを死刑にすることこそ、神に従うことだと思っていたのです。
それに対してイスカリオテのユダが、「罪のない人の血を売り渡し」と
言ってきても、その言葉をそのまま受け入れられるわけがなかったのです。
「イエスは自分を神としたのだから、神を冒涜する罪人だ。
お前がどう思おうと、そんなことは関係ない。死刑になって当然だ。
今さらそんなことを言ってきても我々の知ったことではない。お前の問題だ」
もはやお金を受け取らなかったことには、できなかったのです。
イエスを裏切らなかったことには、できなかったのです。
一旦犯してしまった罪は、なかったことにはできないのです。
3.本当の解決はイエスの元に行って悔い改めることにあった
もしこの時ユダが、祭司長たちではなくイエス・キリストの御前に行って
「わたしは罪のないあなたの血を売り渡し、罪を犯しました」と
言っていたとしたら、どうだったでしょうか?
単なる後悔で終わることなく、罪の悔い改めになって、
イエス・キリストの十字架の血潮による罪の赦しを、
受け取ることができたことでしょう。
この時イスカリオテのユダの罪をゆるすことが可能だったのは、
イエス・キリストご自身だけだったのです。
人間には不可能でした。人がその人の罪を赦すことなどできなかったのです。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。
神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
マルコによる福音書 2章7節
罪を赦すことは、神にしかできないのです。
神の前に赦しを願い求めれば、赦されたことでしょう。
神にしかできないことを、人に求めた所が誤りだったのです。
自分自身の罪に気づいたイスカリオテのユダに対して、
真に赦しを与えて下さるキリストを示すことなど、
祭司長たちには、到底できなかったのです。
「お前の問題だ」ということしかできなかったのです。
そう言われてしまったら、もはやどうすることもできません。
自分で自分の罪を、どうすることもできないのです。
「わたしはもうだめだ」という所から抜け出すことができなかったのです。
罪深い私は生きている資格などない、死ぬしかないということになってしまい
残念なことに、イスカリオテのユダは首を吊って死んでしまったのです。
そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
マタイによる福音書 27章5節
むすび.サタンのもたらす「おまえはもうだめだ」という嘘を退ける
イスカリオテのユダは、サタンのもたらす「おまえはもうだめだ」という嘘に、
まんまと引っかかってしまったのです。悪魔サタンは嘘つきです。
「そんな大きな罪を犯したおまえは、生きている資格などない」とささやくのです。
確かに罪を犯したら、裁きを受けなければなりません。
罪がそのままなら、永遠の滅びに行かなければなりません。
しかしそうならないように、イエス・キリストがこの世に来てくださいました。
イエス・キリストが、私たちの罪のために身代わりに十字架で死なれ
3日目によみがえられ、私たちの救いの道を完成して下さった以上
私たちにはもはや「わたしはもうだめだ」ということは、あり得ません。
「もうだめだ」という程の罪人の私を、
イエス・キリストは、十字架の血潮で赦しきよめ、
救って下さり、永遠の命を与え、神の子として下さったのです。
【今日の聖書】
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」
という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
わたしは、その罪人の中で最たる者です。
テモテへの手紙一 1章15節