牛の解体実習
大学の畜産の勉強では、牛を解体する実習があるそうです。
生きている牛を一頭、殺して解体して、その体の構造を学ぶということです。
筋肉から骨格、内臓の構造を、実際の牛から学ぶそうです。
この実習では、生きている牛を殺すのが大変だということです。
電気で殺すそうですが、電極の一方を口に挟み、
もう一方の棒状の電極を肛門に差し込み、電気を流すそうです。
1回では死なないので、みんなで足を抑え、何回か電気を入れるそうです。
かわいそうで、皆泣きながらその牛を殺していたようです。
実習した後は、皮も肉も内臓もすべて、焼き捨てていたそうです。
旧約聖書の時代は、雄牛の献げ物がささげられていました。
牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、奉納者は、
臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置きました。
その後、奉納者がその牛を主の御前で屠ったのです。
奉納者がその牛を主の御前で屠ると、
アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある
祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。
レビ記 1章5節
祭司でもレビ人でもなく、奉納者自身が牛を殺していたわけです。
どういう気持ちだったでしょうか?
やはりこの時も、涙が出ていたのではないでしょうか?
自分の罪を贖うために、牛を身代わりにして殺すというのは
心に大きなインパクトを与えていたに違いありません。
罪を犯すということが、どれほどの犠牲を強いられるのか
これが、心に刻みつけられていたことでしょう。
そして罪を安易に犯すことを止めるための、抑止効果を
発揮していたのではないでしょうか?
今は牛の献げものは必要ありません。
なぜなら、イエス・キリストが完全な供え物となって下さったからです。
イエス・キリストの流された血によって、すべての罪が赦されるのです。
キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、
二度目には、罪を負うためではなく、
御自分を待望している人たちに、
救いをもたらすために現れてくださるのです。
ヘブライ人への手紙 9章28節
【今日の聖書】
牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、
無傷の雄をささげる。
奉納者は主に受け入れられるよう、
臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、
手を献げ物とする牛の頭に置くと、
それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。
レビ記 1章3〜4節