顔も見せない
1.ナアマンはエリシャの態度に怒りを露わにした
ナアマン将軍が、エリシャの所にやってきた時
エリシャは顔も見せずに、こう言います、
「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。...」
ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、
その入り口に立った。
エリシャは使いの者をやってこう言わせた。
「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。
そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
列王記下 5章9〜10節
遠くアラムから、わざわざ高価な贈り物を携えてやって来たのに、
「顔も見せずに、ただ使いの者を遣わして言葉だけ伝えるだけか!」
「しかも、ヨルダン川で体を洗えだと!あんな川で洗えというのか!」という
普通で考えたら、何て失礼な対応か!と
言わざるを得ない、そんな状況だったのです。
当然のごとく、ナアマンは怒ります。
ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。
「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、
患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川
アバナやパルパルの方が良いではないか。
これらの川で洗って清くなれないというのか。」
彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
列王記下 5章11〜12節
2.しかしナアマンはエリシャの言葉を実行に移して癒された
けれども、家来たちの勧めもあって、ナアマンはその言葉の通りに実行しました。
ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、
ヨルダンに七度身を浸した。
彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
列王記下 5章14節
失礼な対応と思えましたが、その言葉の通りにすると
見事に体はいやされて、回復したのです。
ナアマンにとって、憤らずにはおれない応対だったのですが
それでもエリシャの言葉に従うと、見事に治ったのです。
ナアマンにとって、見込み違いだったと思える状況でしたが
それでも彼は、エリシャの言葉に従う必要が、あったのです。
ナアマンは、憤って何もせずに帰って行ったのではありません。
憤りを覚えつつも、エリシャの言葉の通りに行ってそして回復したのです。
ここが今日のポイントです。
3.何でこんなことをしなければならないのか!という場合もある
神の命令はある場合は、私たちの想定外の形で与えられるのです。
そして神は私たちの想定外のことをするように、私たちに命じられるのです。
その時にそれに従えるかどうかで、その後が変わってきます。
もしそれが、憤りを覚えるような状況であったとしても、
それに従うのです。「何でこんな川で体を洗わなければならないんだ!」
「もっとましな川なら、いくらでもあるではないか!」
ナアマンはそう思いました。
きれいな立派な川でなければならないという、思い込みです。
しかし彼の体を洗わなければならなかったのは、ヨルダン川だったのです。
それが、彼にとっての最善だったのです。
ナアマンはこうして、イスラエルのほか、
この世界のどこにも神はおられないことを知ることになったのです。
むすび.それでも私はナアマンのように従います
しばしば私たちは、自分ではやりたくない事をするように神に命じられるのです。
それは、神が私たちの思い込みを取り除くためだったり
私たちに、謙遜や従順さを学ばさせるためだったりします。
その時に私たちがどういう対応をするかが、問われています。
それでも神に従うのか、それとも自分の思いを優先させてしまうのか?
どちらを取るかで、その後の人生が大きく変わってくるのです。
ナアマンのように、それでも従いますという姿勢で
従順に神の言葉に従っていくことが、ここから教えられます。
従うかどうかは、私たち自身にかかっているのです。
【今日の聖書】
彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、
その前に来て立った。
「イスラエルのほか、
この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。
今この僕からの贈り物をお受け取りください。」
列王記下 5章15節