預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れる
1.完全なお方イエス・キリストが来られると部分的なものは不要となる
将来、キリストがこの世界に戻って来られた時には、
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れます。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
コリントの信徒への手紙一 13章10節
預言が廃れ、異言がやみ知識が廃れるのは
完全なお方であるイエス・キリストが、この地に来られることによって
部分的なものが、不要になるからです。
2.預言も異言も知識も部分的なもの
預言というのは、特定の人間が神の言葉を受け取って他の人に伝えることです。
この預言が廃れるのは、キリストが直接人に語られるためです。
神の言葉を、人間が預言という形で伝えなくてもよくなるからです。
異言は、私たちが普通の言葉で語ることができないような切なる心のうめきや叫び
喜びや感謝を、聖霊がとりなして語って下さる言語なのですが、
異言で語らずとも、直接キリストと心と心で語り合うことができるので必要なくなります。
神についての知識すなわち霊的な知識は、現在の私たちは完全には持ち得ません。
人の持っているこのような部分的な知識も、完全なキリストの教えて下さる知識の前には
もはや不要となります。
3.再臨までは預言も異言も知識も継続している
将来キリストが再臨されると、このように預言は廃れ異言はやみ知識は廃れます。
けれどもキリストが再臨されるまでの間は、預言も異言も知識も継続するのです。
神の言葉を預かって語る「預言」は、今もって続いています。
自分の普段語っている言葉ではない「異言」を語ることも、
「異言で祈る」ことも、継続しています。
「知識」も、聖書を通して私たちは吸収し続けています。
キリストの再臨の時には、預言は廃れ異言はやみ知識は廃れますが
それまでの間は、預言も異言も知識も継続するのです。
特に、異言はまだ廃れているわけでは無いのです。確かに続いています。
「異言は初代教会の時代で終わった」という主張は、誤りです。
異言を軽んじたり、終わったものとして扱うことは
神の恵みを無にすることになるので、とても危険なことになります。
むすび.再臨の時までは預言も異言も知識も大切にする
確かに再臨の時には、預言も異言も知識も部分的なものなので
終わりを告げますが、今はまだ終わっていないのです。
これらは今の私たちにとっては、必要なものです。
ですから、将来廃れてしまうからと言って
これらを蔑(ないがし)ろにしては、なりません。
逆に、大切にしていよいよ主に近づいて行くのです。
【今日の聖書】
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
コリントの信徒への手紙一 13章8節(後半)〜9節