2020年9月20日  「愛はすべてを信じる」
          コリントの信徒への手紙一 13章7節
はじめに.「愛はすべてを信じる」というが、使徒たちはいつもそれができていたのだろうか?
     愛は、隣人を疑いの目で見ずに、隣人のすべてを信じる。
     けれども、聖霊に満たされて宣教に励んでいたはずの
     イエスの使徒たちも、隣人を信じられなかったことがあった。

     使徒たちは当初、イエスを信じるようになったパウロを信じられなかった。

1.使徒たちは当初パウロを信じられなかった(=愛せなかった)

@パウロには大きな前科があった (使徒9:26)→だから不信感しか抱けなかった
 パウロは、エルサレム教会の大迫害者だった (使徒8:3)
 パウロ自身も、のちに
 「私は、徹底的に教会を迫害し滅ぼそうとしていた」(ガラ1:13)
 と告白しているほど、徹底的な迫害者だった

 パウロがダマスコに行ったのも、キリスト信者を捕縛するため(使徒9:1-2)
 当時のパウロは、キリスト教会の迫害者以外の何ものでもなかった

Aパウロに対する悪い先入観が彼を信頼することを妨げた
 パウロはエルサレム教会に行って、仲間に入ろうとしたが
 そのエルサレム教会こそ、パウロによって散り散りにされ
 散々な目に会わされていた教会そのものだった

 エルサレム教会にとって、パウロは敵対者の中心であり首謀者=教会の敵!

 それが「キリストを信じました」とはどういうこと?
 あり得ない!信じられない!絶対に嘘だ!
 今度は味方の振りをしたスパイとして、教会に入り込もうとしているのではないか?
 疑心暗鬼(ぎしんあんき)にならざるを得ない状況

 聖霊に導かれて宣教を進めていた使徒たちでさえ
 このように疑心暗鬼になってしまうことがあった
 肉の判断が聖霊の導きよりも強くなってしまうと、こうなってしまう

 過去の実績だけに基づいて、推測し判断してしまった
 その人に対する負の先入観は、その人を信頼することを妨げてしまう。
 逆に良い実績をたくさん知っていれば、信頼することはたやすい。

 人間の力の限界が、ここに見られる

B使徒たちはパウロの良い事実「彼の救いの過程」を知らなかった
 エルサレム教会の使徒たちは、迫害者パウロは知っていた
 しかし、回心者パウロは知らなかった

 パウロに対するすべてを知っていたのではなく、一部だけしか知らなかった
 最も大事な情報「イエスに出会って信じた」が抜けていた → 誤った判断を招いた
 そのため、知りうる状況のみで判断してしまって、そこから来る恐れが先行しまっていた

 その人の一部の事実しか知らないと、それが悪い事実の場合、信頼するのは難しい
 悪い事実を知っていても、その後の良い事実をそれ以上に知っていれば
 信頼することは、容易になる

 神はその人のすべてを知っておられる
 祈りは、その人のすべてをご存知である神に聴くことに他ならない
 祈るとき、神は正しい判断へと導いて下さる

2.バルナバはパウロを信じた(=パウロを愛した)

@バルナバはダマスコにいてパウロを見ていたのか?
 バルナバが、ダマスコでパウロの回心を目撃したとは書いていない
 バルナバが、パウロと共にダマスコからエルサレムに行ったとも書かれていない。
 バルナバは、エルサレムにいたとみなすのが妥当だろう。

 バルナバが、パウロの回心状況を見ていなかったとすると
 彼は、パウロの回心を見ていないけれども、
 見ていなくてもパウロの話で、彼を信じたことになる。

Aバルナバは「パウロ=迫害者」という悪しき先入観を捨てた
 バルナバは慰めの子。パウロを優しく迎え入れたのは確か。
 パウロのやっていた「教会の大迫害」という昔の行動や
 実績でパウロを見ず、今の彼を見ていた。

 そしてその言葉を聞き、その真実さを信じ
 パウロを迫害者として恐れるのではなく、彼を信頼した
 愛は、相手を恐れないで信じる。

Bバルナバはパウロを信頼してそれを行動で表した
 バルナバのパウロへの信頼は、行動に現れている。
 パウロを連れ、使徒達の所に行って事の次第を説明した。(使徒9:27-28)

 →その結果、パウロは主の名によって恐れずに教えるようになった
 バルナバの愛による信頼が、パウロを教会公認の働き人とへと導き
 パウロが大胆に働けるようにした

 その人を信頼する時、その人は最高に生きることができる
 パウロもバルナバに信頼されたからこそ、他の使徒たちにも信頼されるようになり
 自分に与えられたタラントを、いかんなく発揮することができた

 その人を完全に信頼する真実な愛は、その人を真に生き生きと生かすことになる
 聖霊は、その人を完全に信頼する真実な愛の実を結ばせてくださる
 バルナバは聖霊の導きとその愛によって、パウロを信頼できていたと考えられる

3.キリストは愛をもって私たちを信頼して下さっている

@キリストにとって最重要の働きは何か?
 人々の救いこそ、キリストにとって最重要な働き
 それをどのようにして行っておられるだろうか?

 もし私たちが、重要な働きをしようとした場合
 どのようにするだろうか?
 たとえば、数千万円の振込を銀行で行なう必要がある場合、
 自分で行って自分で行なわないだろうか?

 道で出会った見知らぬ人に、任せるだろうか?任せない。危険すぎる。
 近所に住んでいる人に、ちょっとお願いと言って任せるだろうか?
 任せない。自分で最後まで行う。

Aキリストは最重要な働きを誰にゆだねられたか?
 しかしイエス・キリストは、信徒を信頼して、
 宣教という最重要な仕事を、任せて下さった

 イエスがパウロを救われた時は、イエスが直接声をかけられた
 誰に対しても、パウロのように直接イエスが現れれば救いは簡単と思う
 直接イエス・キリストが現れて、不思議な方法で語られたら
 誰もが信じずには、おれないのではないだろうか?

 だがイエス・キリストは、そうはなさらない
 ご自分を信じている信徒に、宣教を任せておられる (1コリ1:21)
 「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう」

 数千万円の振込を、道で出会った見知らぬ人に任せるよりも
 もっと愚かな方法と思われる

Bキリストは私たちを愛し信頼し任せておられる
 イエス・キリストは、そこまで私たちを信頼して下さっている
 私達は今、神に愛され信頼され使命が与えられている
 「過去の経験によらず、私は今神に信頼されている」ということを信じよう!

 イエス・キリストが信頼されたのは
 3度イエスを知らないと言ったペトロであり、
 ボアネルゲスと呼ばれた、短気極まりないヤコブとヨハネであり
 徴税人だったマタイであり
 この指を釘跡に入れてみなければ信じないと言った、トマスであり
 その他もろもろの、弱く愚かな人々だった

 ただ彼らの共通点は、イエス・キリストを自分の主として信じていたことにある
 ただそれだけで、過去大きな失敗をしていた彼らを
 まるでそんなことがなかったかのように、
 成功から成功を続けてきた人であるかのように、信頼して任せて用いられている

 私たちも同じように、信頼されている。
 たとえ過去いろいろな過ちを犯してきたとしても
 信じた後も、いろんな罪を犯してしまったとしても
 神は私たちを信頼して、任せて下さる

むすび.神は私達を信頼しパウロのように用いて下さる
 神は私たちの過去を、キリストの十字架を通して見ておられる。
 罪に満ちた過去を、十字架の血潮によって見られ赦しの目をもって見ておられる
 そしてそれらがどれほどであろうと、今の私たちを信頼し、
 神にとって最重要な、魂を救うための宣教を任せておられる

 神の信頼に応えて隣人を愛し信頼し宣教に励もう!
 宣教こそ、未信者をどこまでも信頼して愛する愛の行動にほかならない