1.主の鍛錬は神の子とされた信徒を聖化へと導く
@主は神の子とした愛する者を必ず訓練される(12:5-6)
親であるなら自分の子を訓練する→神も同じ (12:7)
イエスを信じた後は神の子とされ→祝福と鍛錬を受ける
鍛錬=神の子とされた証拠 鍛錬がない人≠神の子(8)
Aなぜ子とした者を鍛錬という鞭で打たれるのか?
罪と戦って血を流すまで抵抗したことがない (12:4)
あらゆる罪から離れさせるために鍛錬という鞭が必要
自分の罪と戦い抵抗し離れ去るために→鍛錬を与える
Bもし鍛錬がなかったら→我欲と罪に生きるままになる
ゲッセマネの祈りにはならない→御心を行えないまま
我欲と罪→イエスを信じる→赦される→罪と欲は残存
救い(罪の赦し)と聖化(罪から離れること)とは別物
2.試練を不幸と考えずに神の真実な愛の鍛錬ととらえる
@世は試練を不幸と捉えるが実は試練こそ最高の喜び
この世は逆境,苦難,困難,辛い状況を不幸と捉えている
しかし色々な試練は実はこの上ない喜び(ヤコ1:2)
試練→信仰が本物と証明→称賛,光栄,誉れ(1ペト1:6-7)
A試練もなくすべて順調な信仰生涯など本来あり得ない
神は愛する子を訓練される→子でなければ試練はない
試練の経験なし→信仰を再確認→信仰が偽物かも?
伝道→迫害を受ける 伝道しない→迫害も試練もなし
B人生で重要なのは祝福よりも主が下さる鍛錬
「鍛錬など不要!祝福こそ重要!」というのは間違い
鍛錬こそ神からの「最高の」プレゼント→聖化に繋がる
ヨブの財産は倍増したが鍛錬は財産のためではない
3.神の与えて下さる試練を神の愛として受取る
@神は私たちを愛されるからこそ鍛えられる
神は私を用いたい→けれども私が我欲と罪の中でもがく
試練→信仰が試される→忍耐→完全無欠に(ヤコ1:3-4)
神が大きく用いることのできる器へと変えられる
A神が与えて下さった試練を神の愛として喜んで受取る
主の鍛錬は神の子とされた者に当たり前にやってくる
主の鍛錬は避けるものではなく進んで受け取るもの
逆境、苦難、困難は神の愛の賜物→喜んで受け取る
B神は愛をもって訓練し私が良くなるように変えて下さる
訓練を乗り越える→忍耐が生じ→練達→希望へと続く
むすび.鍛錬はなくてはならない神からのプレゼント
鍛錬により私は変えられ聖化へ進み大いに用いられる