2025年4月6日  「愛は隣人に仕える」
          ヨハネによる福音書 13章3〜5節
1.イエスの洗足の姿はへりくだって人に仕える姿
@弟子の足を洗う姿は人の前にひざをつき仕える姿
 弟子がイエスに仕えるべきなのにイエスが弟子に仕えた  上に立つ人物は多くの人々から仕えられるがその逆
A弟子の足を洗う姿は決して格好いい姿ではなかった
 格好よさを求めるなら洗足など決してできないこと  イエスの洗足の姿は身分の低い者の姿 格好よくない  洗足は自分を人よりも徹底的に下にする姿 
B真のへりくだりは隣人を生かすが自分には損な役回り
 得をするのは隣人であって、自分ではない  隣人は汗をかかないが、自分は労し汗をかき疲れる  しかし賞賛され目立つのは隣人であって自分ではない
2.イエスの洗足の姿は自分に死ぬ姿
@弟子たちは偉くなって王座の左右に座りたかった
 「どうだ俺様はすごいだろう!」という自己顕示欲のまま  人よりも自分を上にして自分を高くする=自己中心≠愛
Aイエスの姿は自分に死んで自分を人よりも下にする姿
 本来は人の足を洗うよりも人に足を洗ってもらいたい  自己中心な心(罪)=自分を生かすために隣人を殺す  イエスの姿=人を生かすために自分に死ぬ=愛
B普通他人の汚い足を洗うのは嫌なこと「嫌られる仕事」
 嫌な仕事は避けたい好きな仕事をしたい=自分の思い 人から嫌われたくない好かれたい=自分の思い  人から嫌われようが隣人に最善をなすのが真実な愛
3.愛は自分に死んで隣人を生かす
@本物の信仰は自分に死んでキリストに生きる
 「自分がやりたいことをするので神様助けて」≠真の信仰  私は心の王座から降ります!イエス様座って下さい!  自分に死ぬ。やりたいことをするのでなく御心を生きる
A自分に死なない愛はない
 自分に何らかの見返りがあるならそれは愛ではない  自分のためにしていることは隣人愛ではない  自分に見返りがなく相手を生かすのが本当の愛
B洗足に見返りはなかった
 12弟子への洗足は力も丁寧さも必要だったはず  それだけ仕えて大変な思いをしても見返りはなかった  12弟子ばかりきれいになって自分はきれいにならない
むすび.イエスの洗足の姿にならうことが求められている
 神の力によって私たちも洗足ができるようになる!