2025年5月25日  「キリストの血による無償の赦し」
          ローマの信徒への手紙 3章23〜25節
1.人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられない状態
@人は皆罪を犯しているので人生がうまくいくはずない
 最初の人アダムとエバの家庭内の殺人から現在に至る  人類最初の家庭で既に殺人が起こっている→人間に入り込んだ罪の恐ろしさ  そして現在に至っている  私たちはすべて、神に対して罪をもった罪人として生まれついている  誕生→成長→成人→就職→結婚→育児→家庭構築→子の結婚→孫の誕生→...  生まれながらにして罪人なので、人生のすべてにおいてうまくいくはずがない
A各人の罪が失望落胆多くの問題の原因となっている
 罪人は、神から良いものが来るのに神に背を向けて生きる→  問題が起きないはずがない → 幸せな人生のはずがそうではなく  失望、落胆、絶望へと続く  理想的人生とは程遠い人生を送ることになる  こんなはずじゃなかった、というのが全人類の当然の帰結  表面的にはうまくいっているようでも、実は...  罪が解決していなければ、うまくいっているはずがない  うまくいっているようでも、悪を基盤としているだけだったりする  財産は築けても、そこに生じるのは良心の呵責  日本の教育では、生まれながらにして罪人とは教えない  「悪い事をしている人が悪い人」という教育  「悪い事をしなければ良い人」という意識が育つ  しかし、人間は生まれながらにして罪人  決して「悪い事をしていなければ良い人」なのではない  元来罪人なので、何かのきっかけがあればカインのように罪が行動に表れる
B事業、学校、社会、国全体、全世界がうまくいかない
 罪人であって、人生のすべてにおいてうまくいかないというのは、  単に個人がうまくいかないのではなく、集団全体がうまくいかなくなる  現在も全世界が異常な状態であって、決して神の前に正常とは言えない  ノアの洪水の時滅ぼされなかったのは、ノアの家族のみ  ノアの時代、罪による暴虐は地に満ちていた=世界全体が悪くなっていた  →今も全世界が悪の中にある この世の君である悪魔が密かに世を支配している
2.罪人にはふさわしくない恵みが無償で与えられている
@ノアの時代以降も罪の歴史は続き悪はユダヤ人にも
 ノアの時代の後、人々は神の言葉に反してバベルの塔を築き  さらに様々な異教の神々を作りあげていった  腐敗しきったソドムとゴモラの町の滅亡、カナン人などの悪の増加  アブラハムが選ばれたが、選民ユダヤ人にも悪が侵入  預言者が神の言葉を伝えても、それを無視し悪の中に残留  全世界が悪の中に→世界の闇は深まるばかり
A神の子イエスによる贖いの業を通して無償で義とされる
 罪によって滅茶苦茶になった人類に、神の憐れみと恵みがもたらされた  本来滅ぼされて当然の、罪で汚れ切った人類を赦すため  神の一方的な恵みにより、罪から解放される道が開かれた  「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
B神はキリストの血によって人類の罪を償うようにされた
 人が犯した罪を「見逃して」神の義をお示しになるため  イエスを「信じる者のための罪を償う供え物」となさった  何も良い行いがなくても「ただ信仰によって」義とされる道が開かれた  罪人である人間が、どうしてもできなかったことを神が成し遂げて下さった  どんなに頑張っても、自分の罪から抜け出せない人類のために  イエス・キリストを十字架につけて下さった  神はキリストの血によって人類の罪を償うようにされた  全人類の罪の身代わりの刑罰を、イエス・キリストが十字架で受けて下さった  その流された血によって、全人類が何もしなくても信じるだけで赦されるようになった
3.神に信頼を置いて恵みを躊躇することなく受け取る
@人間の罪の大きさ陰湿さ残酷さ冷酷さを超越した恵み
 あんなひどいことをしたら救われないというのではない  遊女だった女性も、イエスから赦しを受けた  ザアカイも赦され、十字架に架けられていた犯罪人も赦された  バラバは本来刑罰を受けなければならなかったのを  イエスが十字架につくことで、刑罰(おそらく死刑)を逃れることができた  バラバがイエスの赦しを受けたかどうかは、聖書には明記されていないのだが  自分の刑罰が免除されることになったことで  おそらくイエスを信じて、罪の赦しも受け取ったのではないかと予想される  ただし、これは断定はできない
Aギブアンドテイクの常識からあまりにもかけ離れている
 人間社会はギブアンドテイクの社会  → 相応のお金を払って、必要なものを入手し所有する  水も食糧も衣服も住まいも、すべて入手するためにはお金を支払う必要がある  しかし神からの救いは、それが一切ない無償なのである  お金でいえば¥0。何らの労働や作業も、苦行や修行も不要  人間側から一切テイクされずに、一方的な神からのギブ
B日本の文化と真っ向から対立する神の無償の救い
 日本は義理と人情の社会 → して頂いたからお返しに何かしないといけない  ふさわしくない時は、「私にはもったいなくてそれは受け取れません」  ただでもらうなんて図々しい あつかましいことを嫌う文化  日本の文化は、義理・もったいない・遠慮の文化  日本文化の中で生きてくると、無償で受け取る事が難しい  「救われるために何かしないといけない」  「救われるためにこれをしなさい」と言われる方が受け入れやすい  しかしイエス・キリストによる救いの恵みは、全く無償  すべての代価は、イエスが支払ってくださった  救いの恵みに、義理やお返し遠慮は必要ない  罪人にはもったいないほどの恵みを、図々しくも  あつかましく、ただで受け取らなければならない  だから信じて救われた人も、何も誇ることはできない  一旦日本文化のやり方を脇においておいて、無償の救いを  遠慮しないで、図々しくただで受け取るのである  そのために何か良い行いをする必要など、ひとつもない
むすび.信じるだけですべて赦す神の愛に限界はない
 信じるだけで、すべての罪を赦す神の愛に限界はない  自分はこんなに多くの罪を犯してしまったと言う場合でも赦される  神の赦しは無制限であって、信じて悔い改める時に赦されない罪はない  救われるためには、行ないが伴う信仰は必要だが  信仰以外の良い行いは一切不要  良い行いは救いのためでなく、救われた後に天に宝を積むためのもの    無償の救いを、今日受け取ろう  救われている人は、決して行いによるのではないことを再確認しよう  救われていてもいなくても、人間の価値自体は変わらない  自分の価値が高いから、救われたのでもなく  救われたから、自分の価値が高くなるわけではなく  ただただ神の憐れみによって、救われただけなのである