1.神の愛は神の義を土台として成立している@愛は義の上に立つ (悪は愛の土台になり得ない)親切なタクシー運転手が、交通違反の連続だったらどうだろう? → その車には乗りたくない 交通違反をしない運転の上で、親切であるなら → また乗りたい 正しい運転の上に、親切な行いが乗っているのでなければ意味がない いかに親切な運転手であったとしても、交通違反をして事故を起こしたら、その親切は無に帰してしまう。 親切の前に、正しい運転が求められる 愛の土台は「正しさ」でなければならない。愛は義の上に立っている 「正しさ」の上に愛が乗っている=義のない所に愛はないAキリストの十字架の死は神の義を崩さないためのもの義なる神が罪人の人間を受け入れるには「罪に対する正しい裁き」が必須 全人類が神に正しく裁かれたとすると、すべての人が地獄に行かねばならない 全人類が地獄に行かずに助かる方法は、全人類の裁きを誰か罪のない人が代わりに受けるしかない 1000万円の負債のある人が、別の1000万円の負債のある人の負債を払うことはできない 自分の負債も返せないのに、他人の負債まで返すことはできない 負債のまったくない富める人が、その人の代わりに支払って初めてその人の負債は免除される 罪人が、他の罪人の罪の裁きを身代わりに受けることはできない 罪のない人だけが、他の罪人の罪の裁きを身代わりに受けることができる 罪のないイエスが、十字架で死んで初めて人が救われるようになった もし神が、人の罪を容認し「いいよこれ位の罪なら大丈夫だよ」と言われるのなら 神の義は、そこでがらがらと崩れ去ってしまう 「神は、罪を容認される不義な方だ」ということになってしまうのである そうなるとイエス・キリストの十字架の死も、不要になってしまう なぜ神の子イエス・キリストが、恐ろしい十字架で死なねばならなかったのか? それは神が完璧に義の方、正しい方であるから 神の義を崩さないためには、どうしても罪のない方が 全人類の罪の身代わりの裁きを受けねば、ならなかった イエス・キリストが、全人類の罪の身代わりの裁きを十字架で受けねばならなかったB神の愛は神の義を土台として成立している神は愛の方であり、恵み深く慈しみ深く優しい しかし単に優しく恵み深いだけではなく、「正しさ」すなわち「神の義」がその前提にある 厳しすぎるほど完全な「義」が、神の愛の土台にしっかりと据えられている 神の愛は、神の義を土台として成立しているのである 私たちに対する命令「互いに愛し合いなさい」の前提にも、「神の義」がある 神の正しさ=義を無視して、互いに愛し合うことはできない 悪や罪を排除して、神の義を土台としなければならない だから愛し合おうとするなら、まず「神の義」を求める 「義」の逆の「罪」を悔い改めることからはじめる 罪を悔い改めてはじめて、真に互いに愛しあう事が可能になる 聖い生き方をしてはじめて、愛し合い続けることができる 神の聖さを求め続けてはじめて、神の愛に近づいて行くことができる2.神の愛は義が土台にあるため一切の偽りがない@救い主を送るという約束はイエスによって成就した神の義は、私たちに対する約束を成就するという形で我々に示された 神は約束を破られるような不義を、絶対に行われない方 聖書は、「神が約束されたことを、次々と成就されていった歴史」の記録 神はひとり子を与えられるほど、この世を愛された その約束は、創世記のアダムの時から始まっていた 神の愛に偽りはなかった 約束通り救い主が与えられた 正しく義なる神は、決して約束を破られることはない 神が約束されたことは、必ず成就する 神の約束の成就を見る時、そこに神の義を見ることができるA聖霊を送るという約束もペンテコステの日に成就した「間もなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒1:4-5)という約束も 五旬祭の日一同は聖霊に満たされた (使徒2:1-5) ということで成就している 聖霊を受け取ったらキリストの証人となる(使徒1:8)という約束も その後の使徒言行録を読めば、弟子たちが聖霊を受けてキリストの証人となって 成就していっていることがわかる 神の約束には、偽りがなかった 約束通りのことを、神は正しくなされている 義なる神に、何らの偽りはないBキリストの再臨と信徒達の携挙の約束も必ず成就するイエスが来られて世の終わるときの様々な徴がある (マタ 24) 主が天から降って来られ空中で主と出会うことになる(1テ4:16-17) これらの神の約束はまだ成就していないが、義なる神は必ず成就される 神の義を信じるなら、イエス・キリストの再臨と私たちの携挙の約束も しっかりと信じて、待ち望む 愛なる神は、約束されたことを偽りなく成就されるからである3.愛には偽りがあってはならない@偽りとは何か?「偽り」というのは、「義」の逆であり悪そのもの もし「愛」に「偽り」が混在してしまったら、その瞬間それは「愛」ではなくなる 偽りを徹底的に排除する時、真実な愛に迫る 偽りとは何か? ・嘘をつくこと ・自分の本心を隠すこと ・本来そうでないのにその振りをすること ・自分を飾ること ・罪人なのに自分を正しく見せかけること ・ごまかすこと ・誇張表現や過少表現 ・自己卑下 ・思ってもいないことを、あたかも思っているかのように話すこと ・いつもやっているわけでもないのに、いつもやっているかのような振りをすること ・相手の顔色を伺って、相手の意見をあたかも自分も同じことを考えていたかのように語る事 愛が義を土台にするならば、当然悪や罪は入り込めない これらの偽りを、まず徹底的に排除することからはじめる 殺人,姦淫,盗み,貪欲等と同様に、偽りという悪も排除する 偽りは、愛には決して混ざらないものだから排除するA偽る原因は何か?偽りを始め、絡みつくすべての罪をかなぐり捨てる (ヘブ12:1) 偽りを捨てるためには、偽ってしまう原因を知る必要がある なぜ偽るのか?その原因を探れ! (a)ペトロはなぜイエスと無関係と偽ったのか? 自分も同じように捕まりたくなかったから 人が偽る原因のひとつは「保身」 保身を捨てることが、偽りを捨てることに直結している 自分の非を認めずに保身に走れば、偽ることになる 自分の罪を認めて真実に悔い改める時、偽りから遠ざかり真実になる (b)アナニアとサフィラはなぜ献金額を偽ったのか? 自己顕示欲と貪欲に支配されていたから 自分を立派な人物としてみんなに示したかった けれどもそこまで立派ではなく貪欲を捨てられていなかった 自己顕示欲が残っていると、自分を立派に見せたくなる 立派な自分を装うことになる、これが偽り 欲望に支配されると、多く受けようとして嘘をつく 保身、自己顕示欲、貪欲、これらが偽りの原因となる 保身ではなく、自分を捨て自分の十字架を負って主に従う=自分に死ぬ 自己顕示欲でなく、他人を自分より優れたものと思う お金やこの世のものに対して貪欲になるのではなく、神をこそ熱心に求める 偽りの原因となるものを捨てることにより、偽りから遠ざかることができるB真実な姿を神に差し出す神を心を尽くして愛そうとするなら、神の前に自分を飾ってはならない 神の前に飾らず格好つけず、裸の自分をさらけ出す 真実な自分の姿を神の前に差し出すことによって、真実に神を愛する 罪を悔改めて罪から離れ、神に従い聖なる生活を送る(ロマ6:19) 自分を飾り義人の振りをしたファリサイ派は反面教師 神に対して真実であるなら、隣人に対しても真実になれるむすび.偽りは真実な愛を台無しにしてしまう!取り除こう偽らず罪を認め砕かれた心で神を求め神と隣人を愛そう