Fisher、Charles Henry Day 1848.11,8−1920.1,2
アメリカ・北部バプテスト派教会宣教師。米国イリノイ州マウント・パラティンに牧師の子として生まれる。17歳の時に父からバプテスマを受けた。1874年にシカゴ大学を卒業、同大学神学部の前身バプテスト神学校に入学、77年卒業。翌年イリノイ州ゲネスコにおいて按手礼を受け、3年間牧会に当り、80年ミネソタ州ダラスに転じた。同地の教会はわずか会員2名で全く閉鎖寸前の状態にあったが、10ヵ月後には会員数35名に増加した。その年10月エンマ(Haigh, Emma)と結婚、82年12月29日宣教師としてインドに赴任したが、その後日本派遣を命ぜられ、翌83年(明治16)3月17日に日本に移り、来日当初は東京第一浸礼教会を中心に伝道をした。86年には福島県平に伝道、87年6月から10月まで渡瀬寅次郎に請われ、茨城県水戸中学(現 水戸一高)の教師をしながら伝道を続け、水戸教会を設立した。
1912年横浜に移りバプテスト神学校(関東学院神学部)で教え、37年間日本にあって働き、横浜で永眠。横浜山手外人墓地に埋葬された。(『日本キリスト教歴史大事典』教文館を参照)
Clement, Earnest Wilson 1860,2,21−1941,3,11
アメリカ・北部バプテスト派信徒宣教師。アイオワ州ダビュークに生まれる。1873年5月、13歳でバプテスマを受け、80年シカゴ大学を卒業、81-82年アトランタのバプテスト神学校、82-84年バーリントン、84-87年ビーバーダムなどの中学校で教えた。1908年コールゲート大学から名誉博士号を贈られている。1887年来日、其の年の10月から91年7月まで水戸中学で英語を教えた。のち帰国してシカゴ大学予科で教え、95年再び平信徒宣教師として来日、バプテスト・ミッションが創設した東京中学校(のちの東京学院)の教頭を経て、1903-10年東京学院(関東学院)の院長になり、平信徒の教育者として伝道。更に、新渡戸稲造に招かれて第一高等学校で16年間英語を教えた。一方、1900年からJapan Evangelist(『ジャパン・クリスチャン・クォータリー』)誌を刊行、07-09年Christian Movement in Japan(『ジャパン・クリスチャン・イヤー・ブック』)の主筆、1895−1920年シカゴ・デーリー・ニューズの通信員を務めた。また、日米協会の副会長として日米文化の交流と親善に尽力。27年に帰国。ニューヨーク州ロングアイランドで永眠。主著にHand-book of Modern Japan(1904),Christianity in Modern Japan(05), A Short History of Japan(15)がある。(『日本キリスト教歴史大事典』教文館を参照)
Dearing, John Lincoln 1858,12.10−1916.12.20
アメリカバプテスト教会宣教師。メイン州ウェブスターに生まれる。15歳で受浸。苦学してコルビー大学を卒業。公立学校長を2年間務め、更にニュートン神学校に入学。在学中海外伝道に従事することを決意、卒業後、1889年(明治22年)に按手礼を受けて、10月来日。平、水戸のバプテスト教会で伝道に従った。伝道には『生命のパン』のパンフレットを用い、天気のよい日は、自転車を使って珍しがられたという。94年に横濱バプテスト神学校(後の関東学院神学部)の校長となり、校舎・寄宿舎を新築、教授陣も整え、多くの牧師を養成。1911年山手に<デーリング・ナイトスクール>を設立し、勤労青少年に英語を教え、12年から『Christian Movement in Japan』を編集。横浜在住中多くの功績を挙げ、16年帰国。(『日本キリスト教歴史大事典』教文館より引用)
Brand, James Cassie 1848.9.6−1921.2.23
アメリカバプテスト教会宣教師。英国スコットランドのアバディーンに生まれる。18歳の時回心、郷里の長老派教会に属した。間もなく健康上の理由でカナダに移ったが、のちアメリカに移り、熱心なバプテストとなる。一時郷里アバディーン教会を牧した後、ニューヨーク州ナイアガラフォールズの衰微の極にあった教会を復興し、ニューヨーク市でも伝道に携わった。89年5月、日本に派遣されていたバプテスト最初の独身婦人宣教師クララ.Aサンズ(1873年から1886年まで、横浜で女子教育にあたり、さらに神奈川県・東北を中心に伝道活動を行なった。)と結婚。90年2月にともに来日。最初東京で伝道に従事し、芝浸礼教会を設立、99年5月から水戸で3年間働き、甲府にも度々訪問した。在日25年、日本語を学ばず、通訳付きの英語説教で通したが、多くの人々に強い感化を与え、霊の父として尊敬された。彼はまた聖書の聖句の章節もたちどころに示すほど暗誦していた。(『日本キリスト教歴史大事典』教文館 参考)
渡瀬寅次郎 1859.7.24−1926.11.8
教育者。原四郎の二男として江戸牛込に生まれる。1876年7月東京英語学校卒業。札幌農学校が東京で入学者を募集したのに応募し、札幌に赴き、8月の開校式に臨んだ。クラークW.S.のイエスを信ずる者の契約に署名しており、77年4月にクラークを島松駅に見送っている。同年8月メソジスト境界線教師ハリス、M.C.から受洗。80年農学校を卒業、開拓史御用掛を拝命。82年12月札幌基督教会が成立した際に、同教会会員になる。85年ロンドン万国博覧会事務官としてイギリスに渡り、翌年4月帰国。8月に水戸中学校長に任じられ、87年同校の英語教師として着任したクレメントと親交を結んだ。88年茨城師範学校の校長に就任したが、翌年生徒の不祥事により辞任して東洋英和学校教師となる。85年9月東京中学院(関東学院)が創設された際、クレメントに懇望されて委員長に就任し、少数精鋭主義による実力養成とキリスト教精神による人格教育をモットーとした。学院の基礎も定まり、一方、家業の興農園の仕事も忙しくなったので、クレメントに譲って辞任。伝道にも熱心で、札幌時代は大島組、渡瀬組などと持ち場を定め、市中はもちろん、馬にまたがって山間僻地にまで伝道。水戸時代にも伝集会を開いて自ら講壇に立ち、水戸長老教会でも度々説教した。また東京キリスト教青年会の理事として、その基礎作りに貢献。(『日本キリスト教歴史大事典』教文館より引用)
伊達謙 1848.11.5−1908
教育者。江戸霊岸島の代々医を業とする家に生まれる。医者にならんと志したが、1873年(明治6年)感ずるところあって教育界に身を投じ、神奈川県御所見村用田小学校長となった。バプテスト教会の婦人宣教師ミス・サンズの感化により受洗。修身の授業の時に神の存在を話したため、郡長から注意を受け。また父兄の強い反対もあり、自ら職を辞してサンズの聖書学校(捜真女学校)に転じ、教育のかたわら横濱バプテスト神学校において聖書を学んだ。卒業はしなかったが、伝道者となって、県下各地を伝道。82年の長後浸礼教会設立のひとりでもあった。88年水戸で伝道、91年東京へ。99年東京第一浸礼教会(
植山直樹 生没年不詳
バプテストキリスト教会執事。福岡県小倉に生まれる。1877年植山寿一郎(横濱第一浸礼教会牧師、名誉牧師、原町田教会牧師など)と共に横浜を訪れ、さらに2,3ヵ月後上京。中村正直の同人社に入学した。横浜の教会で親切にされた縁でかんだの駿台英和女学校の礼拝に出席、教えを受けた。また鳥山正心の聖書講義に出席、78年3月ネイサン・ブラウン宣教師から受浸した。93年には水戸バプテスト教会で伝道に従事したが、その後実業家となり、1914年から横濱バプテスト教会の執事として教会堂建設などに尽くした。17年6月、中学関東学院の理事に選出された。(『日本キリスト教歴史大事典』教文館から引用)
水戸に赴任した当時の教勢について植山は次のように記している。
「水戸中学にクレメント氏あり、師範学校に校長渡瀬寅次郎氏ありて、直接間接伝道を助けた。伝道師として伊達謙氏ありて、一時教会は隆盛を極めしも、其後渡瀬氏は辞して東京に往き、クレメント氏は東京学院設立のため渡米し、
(『日本バプテスト史略、下』76頁(2003/4復刻版)参照)
松野菊太郎 1868.2.16(明治1.1.23)−1952.1.25
日本基督教団牧師、米国デファイアンス・カレッジ名誉神学博士。伝四郎の子として甲斐国東八代郡下曽根に生まれる。1885年東京商業学校に入学したが、青雲の志を抱いて、88年渡米しサンフランシスコで働く。よく年7月に日本人福音会寄宿舎の祈祷会に出席し、回心を経験、メソジスト教会でハリス、M.C.から受洗し、更に献身して93年9月受按。伝道のため翌年帰国し、笹尾鉄三郎らと<小さき群れ>の共同生活を営み、リヴァイヴァル伝道のため『キリストの福音、救の歌』と題する讃美歌集を編纂。バプテスト教会宣教師ブランドを助け、甲府に開拓伝道、1899年から1903年水戸で牧師として働く。
のち文書伝道のかたわら芝新網の困窮者伝道に従った。1903年招かれて、東京伝道学校教授に就任。日露戦争が始まると同時に『黙示録略解』を執筆、出版。06年霊南坂教会の副牧師、翌年麻布クリスチャン(聖ヶ丘)教会の牧師となり、44年いんたいするまで37年間在任。09年貧しい結核患者のための<報恩会>を創設。これは現在の<信愛報恩会>に引き継がれている。日本クリスチャン教会年会議長、東京基督教青年会監事、教文館総主事、日本基督教同盟幹事などを務めており、教派合同が宿願であった。33年に『神の国新聞』に連載された『天使の手記』を出版。戦中戦後にかけての主張に「君・僕主義」があり、相手を君とし自分を僕とする精神が世界に平和を来たらすと説いた。
小川達 1872年6月水戸上市生まれ。
1896年10月、真壁において デーリング宣教師より赤川牧師夫人の母堂とともに受浸。水戸登記所所長であったが、1902年から1903年にかけて、水戸浸礼教会が無牧のとき、宣教師のカーペンター女史を助け、伝道説教を行った。日本バプテスト神学校卒。受按は1914年5月。
盛岡バプテスト教会、大阪バプテスト教会牧師などを歴任。
石川保五郎 1872.11.4−1944.1.24
渡部元 1877.12.10−1958.9.10
牧師。旧高田藩士豊次郎の子として生まれる。1886年6月屯田兵に任じられた父に従い、家族と共に北海道根室付近の兵村東
吉田繁(1892.6生)
原籍茨城縣稲敷郡。受洗(1910.11)。受按(T.1921.9)。日本バプテスト神学校出身。家族妻とく子、二男児。土浦教会より転入、八幡教会へ転出。
中島辰蔵(1872生)。原籍、兵庫縣但馬。受洗(1892.7.3)。受按(1919) 横濱バプテスト神学校出身。神戸葺合浸禮教会より。家族妻、四男児、三女児。
内藤忠雄(1902.4.29生)。原籍 東京市。
ケナード宣教師は1931年11月3日の水戸浸礼教会の献堂について、教会年報(Japan Baptist
Annual1932)で「40年待った後に、水戸は日本帝国の何処にも負けないバプテスト教会の会堂を建築した。教会がそうであるように、内藤牧師も素晴らしい。」と報告し、戦争に進みつつあった時代、保守的で国粋主義的な町水戸での内藤牧師の働きを称賛している。彼は東京で旧制中学時代に宣教師ボールディン博士の英語バイブルクラスで学び、キリスト教の精神にふれた。求道者となり受浸(1918.4.28)。回心後、教会活動に積極的に参加し、特に幼稚園を支援した。この活動は中学、高等学校、大学生となっても続けられた。他の教会の応援にも出かけた。立教大学、青山学院神学部に進んだ。受按(1932.12.30)卒業後、派閥争いがあり荒れていた八幡教会に赴任。15ヶ月で会衆を倍にした。しかし、婦人が九州の気候に馴染めず、東京地区に帰ることを希望し、水戸で牧会運びとなった。内藤牧師赴任時は、「水戸は死んだようだったが、彼は生き返らせた。」(ケナード牧師)
会堂建築、早朝の祈祷会、伝道集会などを積極的に信徒と共に行った。1933年11月の2夜に渡った伝道集会は、200枚のポスター、4000枚のビラ、新聞広告などで宣伝した。この集会を成功させるために信徒は早朝6時に祈祷会に集まって祈った。(24名の参加)一日目200名、二日目250名の参加者を得た。町の知識人はほとんど、学校の校長、役人もやってきて、成功を収めた。これまで水戸教会はミッションの莫大な援助を受ける教会であったが、この時期には献金額は日本のバプテスト教会の中で10位以内に入るようになり、内藤牧師の伝道の力にはすばらしいものがあったと思われる。婦人会も組織されており20名程度の参加があったようだ。1941年、メソジストが合同することなどがあり、神戸下山手教会へ転出。後に日本基督教団神戸教区長として活躍。(『バプテストの水戸・平伝道』『教会資料1980』 津川兄記 参照。)
鈴木浜(1906.1.17生)。原籍 茨城縣行方群行方村。受洗(1922.12.10)。受按(1935.10.17)。関東学院神学部出身。原町田、神戸葺合浸禮教会を経て水戸へ。著作に『無からの創造:ローマ人への手紙講解説教』ヨルダン社 1978.3 『神の作品:ローマ人への手紙講解説教2』ヨルダン社 1979.7 『パン一切れの幸せ』限定版 御影保育専門学院出版部(
本阿弥政一(1905.4.22−1986.3.2)
本阿弥菅原朝臣清儀の四男として、富山県に生まれる。本阿弥家は本阿弥光悦につながる日蓮宗の家系。1923年、鎌倉にて病気療養中鎌倉教会(現雪ノ下教会)で熊本バンド出身の金森通倫の説教を聴き、クリスチャンになる決意をする。1924年渡米、カリフォルニアの太平洋神学校に入学するが、病を得て帰国。渡米の船上で、カナダの神学校に留学する伊藤阿似子と出会う。1929年阿似子と結婚。その後、同志社大学に進学、35年神学科終了。同年、朝鮮大田組合教会伝道師に就任。1938年今治組合教会に赴任し、同志社大で大学理事長芹野真太郎牧師から受按。1945年日本基督教団大阪教会副牧師に就任。同年、本阿弥光悦14代目を相続。49年、多くの若者を戦場に送ったことを悔い、牧師を辞す。49〜50年、
白神章道(1936.1.20−2006.1.21)
白神平介、花子の長男として
2006年1月21日病のため突然の召天をするまで、27年間水戸教会で牧会した。
水戸基督浸禮教会設立
茨城縣水戸の伝道は、フィシャ氏が時々東京から出張して伝道したのが始めてである。最初の定住伝道者は富山定八氏であった。二十年七月四日C水昌コ、香取繁五郎の両氏が川勝鐵彌氏より受浸した。此年には其後三回受浸者があった。フィシャ氏は此年の六月一日に水戸中学より教師として招聘せられ東京より水戸に移った。午後と夜分とは自由に基督教の伝道を為す時間があったから、中学に教えながら伝道した。此年にイー・ダブリュー・クレメント氏が米国より来りフッシャ氏に代わって此中学の教師となり、ニ十四年まで玆に居た。フィシャ氏はクレメント氏が来ると共に東京に帰った。明治二十年十二月二十一日十四名の会員によって、水戸浸禮教会が設立されることになり、同日午後三時より設立認可会議が開かれた。列席の代議員は川勝鐵彌、藤沼良顯(横濱教会)、富山定八(上溝教会)、鳥山正心、世良田盛次郎(東京第一浸礼教会)、坂本義輔(平教会)の諸氏で、客員としは神学校のシー・ケー・ハリントン及び横濱の蘇國聖書会社のロバート・タムソン両氏であった。此時ハリントン、タムソン及び藤沼の三氏は、仙台へいって其帰りに水戸に寄ったのである。タムソン氏は未だバプテストの宣教師となっていなかった。会議は川勝氏を議長に、坂本氏を書記に挙げて、教会設立の理由、信仰ヶ條を調べ、満場一致にて其設立を認可した。当時の教会名称は水戸基督浸禮教会と言った。教会は総会を開いて牧師にフィシャ氏、執事に梅澤義道氏を選んだ。設立式は鳥山氏の司会にて、川勝氏の祈祷、鳥山氏の説教、藤沼氏の奨励、ハリントン氏の祝祷等あり、引き続きて聖餐の式が守られた。夜は感謝会があった。(『日本バプテスト史略、下』147〜148頁(2003/4復刻版))
William Merrell Vories(1880.10.28−1964.5.7)
10月28日、米国カンザス州レブンワースで、父ジョン・ヴォーリズ、母ジュリア・ヴォーリズの長男として生まれる。1902年学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意する。コロラド大学卒(哲学士)。1905年 滋賀県立商業学校(現八幡商業高等学校)の英語教師として英語を教える傍ら放課後バイブルクラスを開設し、多くの学生をキリストに導き、学生たちの人生に大きな影響を与えたが、クリスチャン運動の反発を買い、教育現場から追われた。しかし、「挫折と意気消沈の只中」から不退転の決意をもって立ち上がり、建築設計事業を始め、自給自足の精神をモットーに情熱的に社会事業を展開。びわこ湖畔にYMCA活動やキリスト教伝道・教会建設をしながら、近江サナトリウム(結核療養院・現ヴォーリズ記念病院)を開設。学校教育(現近江兄弟社学園)事業を夫人一柳満起子(一柳末徳子爵三女)と共に起こし、キリスト教伝道・医療・福祉・教育事業を展開して地域社会を始め、日本国内に歴史的な足跡を遺した帰化日本人。戦中も日本に留まり、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。
彼はこれらの社会事業を財団法人近江兄弟社の事業として位置づけ、その事業展開のための資金調達を建築設計(現一粒社ヴォーリズ建築事務所)や家庭常備薬メンソレータム(現メンターム)の製造販売(現葛゚江兄弟社)によって成し遂げた。
ヴォーリズは生涯私有財産を持たず、すべてを社会事業のために捧げ、自ら住んでいた住居(現ヴォーリズ記念館)さえも私物化しなかった。ヴォーリズが建築設計家として日本に遺した建造物は1600を数え、今も多くが現存しています。代表的なものとして、近江八幡YMCA会館、堅田教会、軽井沢ユニオン教会、関西学院キャンパス、明治学院チャペル、同志社啓明館・Amherst館・致遠館、神戸女学院大図書館、東洋英和、西南学院博物館、福島教会、京都丸太町教会、洛陽教会、大阪教会、神戸YMCA, 神戸山の手の個人洋館、存続問題で社会問題になった