日本キリスト教団 水戸教会の歴史 | ||||||
水戸の町は明治以降4回中心部を焼き尽くす大火に見舞われ、さらに、昭和20年8月2日、B29による空襲で市の7割が火の海と化しました。そのため、戦前の教会資料は少なく、 | ||||||
当時を知っていた教会員も召天した今、戦前の資料はキリスト教関係の書籍と数少ない教会資料に頼らざる得ませんでした。水戸浸礼教会、基督教団水戸南町教会、 | ||||||
日本キリスト教団水戸教会についての、また合同当時の水戸基督教会の資料をお持ちの方、また下記に記された宣教師、牧師、伝道師について詳しいエピソードをご存知の方は | ||||||
ご連絡下さい。また、1930年〜1945年の水戸空襲まで裡南町にあったウィリアム・ヴォーリズ氏設計の水戸浸礼教会の写真も探しています。 | ||||||
これはまだ調査途中の資料です。多くの信仰の先達者に支えられ今の水戸教会があります事、神さまと先達の兄弟姉妹に感謝です。 | ||||||
年月日 | 水戸教会での出来事 | 関連出来事 | 参照文献 | |||
1973年(M.6) | キリスト教禁止令を解禁 | |||||
1873年 2月 |
アメリカ・バプテスト教会外国伝道会、ゴーグルとブラウン・Nを日本に派遣。 | |||||
1873年 3月 |
横浜第一浸礼教会を設立。(現在の日本バプテスト同盟の教会) | |||||
1877年 | 日本基督一致教会(長老派・改革派)成立。 | |||||
1879年 | ◆アメリカ聖書協会の聖書販売人ゴーブルが巡回説教をしていた。下市立原屋で10月12日〜16日の間に3回説教。 | 『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1883年(M.16) | Fisher宣教師ら、福島県平,水戸で布教活動を行う。水戸の定住伝道者は、富山定八。 | アメリカ北部バプテスト教会宣教師 Charles, Henry Day, Fisher(シカゴ神学校卒)来日 | 『来日西洋人名事典』 『関東学院大学文学部紀要58,71,72』(大島良雄)『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 )『明治大正の水戸を行く』(いばらき新聞社)『来日西洋人名事典』 | |||
1886年 | 日本組合基督教会が組織として成立。 | |||||
1887年(M.20) 12/21 |
◆Fisher宣教師水戸で布教活動を行う。Fisherの自宅が教会代わりだった。Fisherは6月に県立水戸中学校から英語の教師にと請われ、10月まで臨時に勤める。 ◆7月4日川勝鐵彌より清水昌徳、香取繁五郎が受浸。この年さらに3回15名受浸。 ◆県立水戸中学の校長、渡瀬寅次郎は内村鑑三の友人で、札幌農学校でクラーク博士の教えを受けた人である。渡瀬の伝道協力が教会の力になっていた。 ◆12月21日午後3時より14名で「水戸教会設立の認可会議」が開かれ、満場一致で設立決定する。 代議員:川勝鐵彌(議長)、藤沼良顯(横濱浸礼教会)、富山定八(上溝教会)、鳥山正心、世良田盛次郎(東京第一浸礼教会)、坂本義輔(平教会)(書記)、客員:C・K ハリントン宣教師、ロバート・タムソン(聖書会社社長)。牧師をフィッシャー、執事を梅澤義道とする。設立式の司会:鳥山、祈祷:川勝、説教:鳥山、奨励:藤沼ら、祝祷:ハリントン、聖餐式もおこなった。夜は感謝会が行われた。 |
『来日西洋人名事典』 『関東学院大学文学部紀要58,71,72』(大島良雄)『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 )『明治大正の水戸を行く』(いばらき新聞社)『水戸近代史研究1』(水戸近代史研究会)『年表茨城百年』(明治編)(茨城県民室編)『茨城県史年表』(茨城県史編纂委員会)『知道会会員名簿』(知道会) | ||||
1888年(M.21) | ◆県立水戸中学の英語教師として、F.W.Clement宣教師がきて、Fisherの後を引き継ぐ。 ◆3月、富山は横浜へ赴任。 ◆6月相州(神奈川県)より伊達謙着任。 |
新島譲、同志社開学。 水戸基督友会(フレンド派)、水戸で伝道開始。 | 『反動期におけれるバプテスト派の日本宣教 1889-1900』大島良雄(関東学院大学文学部紀要72)『知道会会員名簿』(知道会) | |||
1889年 | ◆デーリング宣教師Dr.Dearing(のち横濱バプテスト神学校の二代目校長)なども伝道。自転車に乗り「生命のパン」という自作の小冊子を持って伝道をしていた。 | 水戸線開通。(小山〜水戸) カトリック教会(天主教)水戸で伝道開始。水戸市誕生 | 『反動期におけれるバプテスト派の日本宣教 1889-1900』大島良雄(関東学院大学文学部紀要72) | |||
1890年 | ◆常陸國水戸浸禮教会として鉄砲町(現 五軒町1丁目付近)に教会堂。◆石川保五郎(当時、水戸中学生。後の京都バプテスト教会牧師)12月6日に受浸。 | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編) | ||||
1891年 | ◆5月、Fisher に代わりDearing宣教師が常盤地区の担当になるが、定住はしないで、巡回伝道をしていた。 ◆Clement宣教師一旦帰国。(来日し1895年東京に東京中学院(関東学院大学の源流)を創設、渡瀬を校長にして協力を得た) ◆教会は鉄砲町で「降誕祭」を祝う ◆「耶蘇の布教・・・上市鉄砲町にある基督浸礼教会にては今回下市に出張所を設け毎月一回宛ブローダン氏の説教ありていか。」と『いはらき』1891年12月26日付けに記載あり。 |
『いばらき』(新聞)M.24./12/26付 『水戸繁昌記』(秋山常次郎) | ||||
1893年 | ◆植山直樹が伝道。着任時、礼拝出席者23名に落ち込んでいた。クレメントは東京へ、渡瀬は師範校長を辞職し東京へ、伊達も東京へ、水戸中学、師範の学生は進学などのため散り散りになってしまい、一時期伝道者がいなかったことが原因。 | 『日本キリスト教大辞典』『水戸近況』『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 ) | ||||
1894-95年 | ◆下市青物町吉本亭にて、水戸基督友会の牧師らと演説会。植山「来りて、みよ」と題し説教。 ◆他のプロテスタント教会の伝道師たちと水戸基督教青年会を組織し、毎月第3土曜日に演説会を開いていた。1894年11月22日付けの『いはらき』には「基督教演説 本日午後七時より泉町富栄亭に於いて明治学院総理米国文学博士井深梶之介・・・・植山直樹の諸氏基督教主題の演説会を開く」とある |
「水戸近況」『基督教新聞』No.581、1894年9月14日 1895年11月22日付けの『いはらき』 | ||||
1896年(M.29) 11月 |
(常陸國水戸浸禮教会として、記載があるが、牧師はいず、伝道師が定住していた。宣教師が2ヶ月に1回くらいの割合で来て説教をしていた。 | 水戸〜上野間鉄道開通 | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編) | |||
1898年 | この頃 日本基督教会水戸講義所(長老・改革派)(千屋和牧師)が上市泉町にあった | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編) | ||||
1899年(M.32) 5月 |
◆水戸を拠点にした伝道が、ブランド夫妻によって開始される。集会は自宅で。知事の許可を得て、刑務所伝道を開始。◆赤川潔伝道師(後の平浸礼教会牧師)5月〜8月水戸にて伝道。 ◆甲府浸礼教会から松野菊太郎が牧師として赴任、ブランド夫妻とともにはたらく。常陸太田方面にも伝道。 |
1899年水戸市仲町(南町2丁目)日本聖公会(聖ステパノ教会)創立 | 『反動期におけれるバプテスト派の日本宣教 1889-1900』大島良雄(関東学院大学文学部紀要72)『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 ) | |||
1900年 | ◆ブランド夫妻宣教。赤十字の行事で聖書640部、トラクト8000冊を売却。礼拝は自宅を開放して、朝夕行う。婦人会は木曜日の午後。 | 『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 )『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1901年 | ◆ブランド夫妻宣教夫妻、水戸を離れる。 ◆松野菊太郎牧師東京伝道学校の教授就任のため転出。 ◆ミス・M・カーペンター(横浜神学校のパーシュレー宣教師の代行として)が宣教師として水戸に在住。 ◆1890年12月、水戸浸禮教会で受洗をした笠間出身の青山学院、横濱バプテスト神学校出の石川保五郎が伝道者としてミス・M・カーペンターを助ける。 |
『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 )『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1903年 | ◆ミス・M・カーペンターの報告によると、「クリスマスは盛会だったが、その後説教の際に伝道説教者が投石されたり妨害をうけた」らしい。活動は困難を極めたようだ。 ◆石川伝道師は水戸と平両方でで活動し、何人かを受浸に導いている。(1902-1904) |
同上 | ||||
1904年 | ◆ミス・M・カーペンター帰国。定住の宣教師がおらず、デーリングが度々伝道に訪れている。 ◆水戸学生基督教青年会が弘道館でおこなわれ、赤川潔牧師は「高尚なる人格は富貴に勝り高尚なる人格はキリストより来る」と論じた。聖日礼拝は日曜の朝10時と夜7時に行われていた。「午前十時、吾人の審判者」(赤川潔氏)「午後七時。歴史上から見たるキリスト其二」(同氏)と1908年4月26日付「いはらき」にある。 |
日露戦争 | 『水戸近代史研究1/4』 「いはらき」(1904.11.22)(1908.4/26、5/3、『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | |||
1905年 | ◆12月26日付『いはらき』は「昨日は基督降誕日なれば、市内各教会堂にては信徒及び知己を招きて祝祭を行なへり、・・・(中略)裏南町バプテスト教会は午後六時より日曜学校生徒の讃美、教師の祈祷、祝文、唱歌等あり 余興として福引、こと、英語唱歌等あり 八十余名の会衆に茶菓贈り物をなし・・・」とクリスマスの様子を紹介している。 | 1905年12月26日付『いはらき』 | ||||
1908年 | ◆赤川牧師が転任後、無牧。石岡町の小川達は(水戸出身で1896年水戸教会で受洗したと思われる)伝道説教者として水戸教会を助ける。「被得の信仰」「新生命」「神を敬ひて足ることを知る」などの説教題が記録に残っている ◆ジョーンズ宣教師水戸に定住。 ◆10月渡部元牧師を招聘。 |
「いはらき」1908.7/5、7/19、8/2、9/13『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1909年(M.42) | ◆8月渡部元牧師辞任。再び無牧。 ◆小川達、登記所所長の職を辞し、献身することを決意、神学校へ進学。 ◆前川伝道師の協力によりクリスマス集会をもつ。 |
1908.3.15日本基督教会水戸講義所が日本基督教会水戸教会として設立。水戸基督友会(フレンド派)、備前町に教会堂献堂。 | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編)『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | |||
1910年 | ◆1月、上市泉町4丁目に新しい伝道館が与えられる。(教会堂ではない)受洗者が増える。ジョーンズ宣教師、幻燈などを使って伝道。しかし無牧のまま。 ◆5月滝沢菊吉が牧師として赴任。 |
『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編)『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1911年 | ◆9月滝沢菊吉牧師辞任、大阪池田に転任。 ◆10月、土浦より小野村功牧師転入、牧会。(土浦と兼牧) |
『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1912年 | ◆宣教師としてホルムト来水。 | 『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1914年 | ◆宣教師としてジョーンズが戻ってくる。 | 『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1915年(T.4) | ◆教会員数54。牧師、小野村功(住所 南町423−5)教会役員として 執事 高橋藤吉(洋服商・南町在) 同執事 庄司萬太郎(文学士、水戸中学校教頭・上市寺町在)日曜學校校長 宮田健次郎(上市八幡在)、書記 鈴木常治(教会内在)の記載あり。 ◆8月篠崎萬亀江牧師就任。 |
『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編)『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1918年(T.7) | ◆教会の住所は上市泉町4丁目。大火で伝道館消失か。3/25 ◆8月、水戸の4つの教派が合同して集会を開く。 |
水戸の大火 | 『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | |||
1919年 | ◆3月より無牧。ホルムト宣教師、工業高校で英語を教え、教勢拡大を図るが、苦難の日々が続く。 | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編) | ||||
1920年 | ◆ミス・クラゲット女史宣教師として来水。 | 『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
1922年 | ◆土浦浸禮教会より吉田繁牧師転入、牧会。 ◆教会の住所は水戸市上市泉町2丁目,現在のモリ商会のところにあったらしい。 |
『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編) 1923年12月26日『いはらき』 | ||||
1924年〜1930年頃 (T14年〜S5年) |
◆吉田牧師、八幡(福岡)浸禮教会へ転出。再び無牧。神戸葺合浸禮教会より中島辰蔵牧師転入、牧会。教会住所が上市裡南町、(牧師住所も同じ)に変更されている。教会員男16人、女15人。 ◆会堂建築へ運動起こる。 ◆賀川豊彦伝道に来水。 |
『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編)『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 )『水戸の今昔 泉町物語』(望月安雄) | ||||
1930年 | ◆無牧らしい。 ◆1931年青山学院大学神学部を卒業したばかりの内藤忠雄が伝道師として赴任。 |
『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編) | ||||
1930年〜1931年 | ◆1930年12月25日付けの『いはらき』は、「市内各教会 クリスマス競演思ひ思ひに楽しく美しき集ひを」と題して、各教会のクリスマスの模様を報じている。内藤牧師の言として「当教会は例年の様に華やかな余興をいたしません事になりました趣意はクリスマスの費用を出来るだけ節約して市内の貧困者約百三十家族にクリスマスプレゼントをする形になっていますこれは市社会課の後援による市内の友会(*フレンド教会)、日本基督教会(*改革・長老派)、聖公会、救世軍と当教会が共力して行ふ事になっております」(原文のまま。ただし*は補足))と記載している。金融恐慌で疲弊した市民の生活がうかがわれるし、また、有名建築家による新しい教会が献堂されたにもかかわらず、常に「神の御心」を実践しようとした牧師・教会員の姿は学ぶべきことが多い。 ◆1931年11月3日有名な建築家ウィリアム・ヴォーリズ氏設計の三階建の新教会堂が裡南町(木田歯科医院近く)に献堂された。講壇後ろに受浸用のプールがあった。 |
『ヴォーリズの建築』(山形政昭著) 教会資料(津川貞一兄著) 1930年12月25日付けの『いはらき』 | ||||
1932年 | ◆内藤忠雄伝道師、1932年12月30日受按。牧師になる。教勢を回復。 ◆信徒名士に 塙七郎(医師、裡五軒町在)、大津鐵吉(請負業、備前町在)、谷島海右衛門(銀行員、久慈町新宿在)の名がある。 |
『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編) 教会資料(津川貞一兄著) | ||||
1935年 | ◆教会員男32人、女31人。 | |||||
1937年 | ◆役員:高橋藤吉(高橋テーラー)、大津鉄吉、谷島海右エ門(会計)(久慈町、久慈浜支店長)、塙病院院長夫人、矢口佐武郎。 | 教会資料(津川貞一兄著) | ||||
1941年 | ◆4月1日メソジスト教会員がバプテスト教会に転入する形をとり合同。 ◆6月宗教団体法という国家の宗教政策から生まれた日本基督教団に参加、無牧の日基、フレンド教会、無牧のメソジスト、セブンデー・アドベンスト教会と合同した。(届出4部・茨城支教区) ◆内藤牧師神戸下山手教会へ転出。 ◆鈴木浜牧師、神戸葺合浸禮教会より転入、牧会。 ◆教会名称が「水戸浸禮教会」から「日本基督教団水戸南町教会」へ変更された。 |
『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編) 教会資料(津川貞一兄著) | ||||
* 記録によると、この当時日本基督教団に合同した水戸市内の教会は、四教会。水戸西町教会はもとの日本基督教会水戸教会で長老・改革派。解散(1部2種 現在の自由が丘教会につながる。西町677、当時牧師は日立泉町教会の木下順治牧師が代務)、水戸備前教会(水戸基督友会)(備前町836、2種、当時牧師は中村萬作牧師で、土浦前川教会を兼牧。)、水戸南町教会(南町460、牧師は鈴木浜で、石岡金丸町教会も兼牧していた。)、釜神教会(釜神町)(現在の備前町。水戸基督教会2種ーメソジスト派?日立追川町教会の伊藤國義牧師が兼牧。*この教会は日本基督教名鑑に1896年から一度も登場しないのだが、1943年版に突如、釜神教会として登場。明治から伝道所・家庭集会所としてはあったようだが、新聞記事から判断しても、消滅・再集合を繰り返していたようだ。)さらに、セブンデー・アドベンスト(大町592、小林慶吾牧師)。救世軍。水戸南町教会以外の牧師は、他地域の牧師で兼牧、代務だった。戦争により牧師も不足していたことがうかがわれる。南町教会以外は、2種教会であった。ステパノ教会の聖公会は単立教会の道を選んだ。他に天主教会(カトリック)があった。 | 水戸市内の教会:水戸南町教会(水戸浸礼教会)、水戸西町教会(日本基督教会水戸教会)、水戸基督友会、釜神教会(水戸基督教会)、セブンデー・アドベンスト教会、聖公会ステパノ教会、天主教会(カトリック) | |||||
1944年 8月1日 |
◆鈴木浜(39歳)と藤崎五郎(51歳)を日本基督教団南方派遣宣教師としてインドネシアに派遣。 | 『日本基督教団年鑑昭和18年版』 | ||||
1945年 8月2日 |
◆戦災の為、教会堂消失 ◆泉町に仮の集会所を求める(矢口佐武郎兄宅と思われる) |
『水戸市史』 ・教会資料(津川貞一兄著) | ||||
1946年 | ◆宗教団体法廃止。フレンド教会、セブンデー・アドベンストは離脱。 ◆宗教団体法廃止後もバプテスト同盟には戻らず、日本基督教団に留まる事を選んだ。メソジスト派の教会員も合同したという事情があるから、新しいスタートを考えた。浸礼教会が教会堂を教団に提供したこと、教勢からもバプテスト出身者が多く、また役員も多かったようだ。 |
宗教団体法廃止 | 教会資料(津川貞一兄著) | |||
1946年 10月16日 |
◆日本基督教団は教憲を制定して自主的に公同教会たることを明かにした | |||||
1947年 | ◆矢口佐武郎兄(バプテスト派出身)が所有地を献じ、現在地(当時 砂久保町)に。 ◆聖光英語塾をはじめる。伝道。 ◆受洗は受浸であって、戦前と違い那珂川で行わず風呂桶を使っていた。引揚者救援活動、農村伝道を積極的に行う。 ◆名称を「日本基督教団水戸教会」に変更。 |
現教会員から聞き取り 教会資料(津川貞一兄著) 1947年12月26日付け『いはらき』 |
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1948年 | ◆1月13日教会堂献堂。 ◆4月1日教会付属の聖光学園保育部設置。 |
現教会員から聞き取り | ||||
1952年 | バプテスト連盟の横手元夫牧師とトム・ガラット宣教師が水戸の地に派遣され、現在の水戸バプテスト教会創立。(4月1日) | 現教会員から聞き取り | ||||
1952年 10月 |
◆鈴木浜牧師退任。豊中へ。 | 現教会員から聞き取り | ||||
1952年 10月 |
◆牧師招聘委員会(役員会)(村上武四郎夫妻、矢口佐武郎夫妻、宮野景一夫妻、福富啓泰夫妻、津川貞一夫妻、林夫妻、大場千秋夫妻)が連日開かれる。 | |||||
1953年 4月 |
◆本阿弥政一牧師就任。 ◆クリスマス・キャロルを提唱、毎年行うようになる。 ◆受洗は受浸であって、戦前のように那珂川や専用プールではなかったが、現在の地での2代目の会堂ができるまでは、風呂桶を使っていた。 |
現教会員から聞き取り 教会資料 |
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1954年10月26日 | ◆日本基督教団、信仰告白を制定する | 現教会員から聞き取り 教会資料 |
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1956年 | ◆会堂再建築委員会組織。目標300万円。 委員長:村上武四郎、委員:矢口佐武郎、津川貞一、織田四郎(会計)、飯島つぎ、大場千秋 ◆役員は終身だったのを改め、任期制にした。 |
教会資料 | ||||
1958年 | ◆青年会主催の4日連続の伝道集会を行う。(平均50名)。 ◆保育部10周年記念事業として、第一中学校講堂で キュックリッヒ女史を招いて講演会。 |
教会資料 | ||||
1959年 4月 |
◆教区総会に会場を提供。 ◆「全市民に福音を伝えよう」を合言葉に、市民への伝道として、路傍伝道、五軒小学校講堂での淵田美津雄氏(真珠湾攻撃の司令官・海軍大佐,戦後クリスチャンに改宗)と小原十三司牧師の講演を行った。 |
教会資料 | ||||
1959年 | ◆夏季伝道師として、同志社大より広沢和人伝道師を迎える。(7月〜8月) | 教会資料 | ||||
1960年 12月27日 |
◆本阿弥牧師夫妻、1960年9月〜61年3月アメリカ外国伝道150周年記念式典に出席のため渡米。その後アイオア州でアメリカ合同教会宣教師として伝道。江川永伝道師(1961年4月20日まで) | 教会資料 | ||||
1962年 4月8日 |
◆新荘(旧砂久保町)後に移って、2代目の教会堂献堂。 | 教会資料 | ||||
1969年 | ◆本阿弥牧師、アメリカ合同教会宣教師として、婦人と共にマサチューセッツを中心に東部諸教会を巡回伝道。 | 教会資料 | ||||
1979年 4月 |
◆本阿弥牧師退任。名誉牧師となる。 ◆緑野教会より白神章道牧師転任。 |
教会資料 | ||||
1986年 3月 |
◆本阿弥牧師召天。 | 教会資料 | ||||
◆ポナペ支援開始。ミクロネシア・ポナペ伝道を20年以上にわたってを支援。毎年ワークキャンプに教会員・求道者を派遣。牧師も数回同行。 ◆信徒による夏の証。 |
教会資料 | |||||
1996年 10月21日 |
◆新教会堂献堂 | 教会資料 | ||||
2006年 1月21日 |
◆白神牧師召天。 | 教会資料 | ||||
2006年 | ◆松井伝道師担任教師に就任。 ◆10月1日 ホームページ開設。 ◆10月会堂献堂10周年記念礼拝。 ◆11月中越地震被災教会支援本田路津子コンサート |
教会資料 | ||||
2008年 4月 |
◆松井伝道師が新潟県燕教会に転任。 ◆橘牧師が、群馬県高崎南教会より赴任。 水戸教会主任担任教師、聖光学園保育部園長に就任。 |
教会資料 | ||||
2008年 6月22日 |
◆橘牧師就任式 午後3時から 司式:日本基督教団関東教区総会副議長飯塚牧師(竜ヶ崎教会)。祝辞:平山牧師(四條町教会)、生地牧師(筑波学園教会)。出席者:92名(内、水戸教会員35名) |
教会資料 | ||||