歴代伝道者と伝道の足跡 | ||||||||
水戸の町は明治から大正に、計四回中心部を焼き尽くす大火に見舞われ、さらに、昭和20年8月2日、B29による空襲で市の7割が火の海と | ||||||||
化しました。そのため、戦前の教会資料は皆無に等しいです。当時を知っていた教会員も召天した今、戦前の資料はキリスト教関係の書籍と | ||||||||
数少ない教会資料に頼らざる得ませんでした。水戸浸礼教会、水戸教督教会、基督教団水戸南町教会、日本キリスト教団水戸教会の | ||||||||
資料をお持ちの方、また下記に記された宣教師、牧師、伝道師について詳しいエピソードをご存知の方はご連絡下さい。 | ||||||||
多くの信仰の導き手に支えられ、神さまの大きな愛を受けて教会が成り立ってきたことに感謝いたします。 | ||||||||
按主礼を受けた 宣教師・牧師 | 伝道師もしくは伝道者 | 伝道の足跡 | 宣教師館あるいは教会所在地 | 資料 | ||||
Charles Henry Day Fisher宣教師 (常盤地区担当) (*Earnest Wilson Clement宣教師、定住) |
1887年〜1891年5月 | 富山定八 〜1888年5月 横浜へ | 1887年水戸で伝道開始。県立水戸中学(現、県立水戸一高)の英語教師に請われ、6月から10月まで午前中授業、午後と夜はバイブルクラスの活動を行い伝道。水戸に定住したはじめての外国人。 1887年12月21日、14名で「水戸教会設立の認可会議」が開かれ、満場一致で設立の運びとなる。牧師はFisherに決定。 | 上市鉄砲町(現、五軒町1丁目) | 『来日西洋人名事典』 『関東学院大学文学部紀要58,71,72』(大島良雄)『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 )『明治大正の水戸を行く』(いばらき新聞社)『水戸近代史研究1』『年表茨城百年(明治編)(茨城県民室編)『灯火をかかげて』(大島良雄) | |||
Dearing宣教師 (常盤地区担当) 非定住 伊達謙 1888年6月相州(神奈川)より赴任、’91年東京へ 植山直樹 (1893-98年) |
1891年5月〜1899 | ◆Dearing宣教師は水戸に来ると自転車に乗り「生命のパン」という自作の小冊子を持って伝道をしていた。(条約上外国人居留地が定められており、特別の事情がないかぎり、水戸のような地方都市には外国人は住むことができなかった。) | 上市鉄砲町(現、五軒町1丁目) | 『反動期におけれるバプテスト派の日本宣教 1889-1900』大島良雄(関東学院大学文学部紀要72)『日本につくした宣教師たち』大島良雄 | ||||
無牧 | 1891年〜1892年無牧状態 | |||||||
◆植山が定住伝道師として赴任した頃は、定住伝道者がいなかったことが原因で、着任時、礼拝出席者23名に落ち込んでいた。 ◆しかし、日本基督教会(改革・長老派)、日本基督友会(フレンド派)の牧師達と基督教青年会を組織し、市内で定期的に演説会を行い伝道。 |
上市裡南町 | 『水戸繁昌記』(秋山常次郎)『水戸案内』『水戸市史』『いはらき』(1895.5.14付) | ||||||
James Cassie, Brand宣教師夫妻 定住 | 1899年5月〜1902年5月 | 赤川潔(後牧師となる)1899年5月〜8月 平教会へ | ◆知事の許可を得て、刑務所伝道を開始。刑務所は現在の水戸税務署のあたりにあった。 ◆「耶蘇の布教・・・上市鉄砲町にある基督浸礼教会にては今回下市に出張所を設け毎月一回宛ブローダン氏(Brandのことだと思われる)の説教ありていか。」と『いはらき』1891年12月26日付けに記載あり。 |
上市裡南町 | 『反動期におけれるバプテスト派の日本宣教 1889-1900』大島良雄(関東学院大学文学部紀要72)『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 )『いはらき』1891年12月26日付 | |||
James Cassie, Brand宣教師夫妻 定住 松野菊太郎 | 1899年5月〜1901年8月 | ◆甲府浸礼教会より赴任。東京へ転出。(東京伝道学校の教授に就任のため) ◆常陸太田方面にも意欲的に伝道。 ◆ブランド夫妻宣教。赤十字の行事で聖書640部、トラクト8000冊を売却。礼拝は自宅を開放して、朝夕行う。婦人会は木曜日の午後。 |
上市裡南町 | 『反動期におけれるバプテスト派の日本宣教 1889-1900』大島良雄(関東学院大学文学部紀要72)『日本バプテスト西部伝道略史、日本バプテスト史略、上/下』(2003/4復刻版 )『いはらき』1891年12月26日付『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
バシューレー宣教師の代行 ミス・M・カーペンター定住 無牧 | 1902年1月-1904年5月 | 石川保五郎(後牧師となる) 小川達(後牧師となるが、この当時は水戸登記所所長であり、説教伝道を熱心に行った。) | ◆無牧の期間、石川が神学校を卒業後すぐ来水し、カーペンター女史を助ける。 ◆石川は笠間出身で1890年12月6日に水戸浸礼教会で受洗した伝道者であった。 ◆また小川達(後牧師となるが、この当時は水戸登記所所長であった)も説教伝道を熱心に行ない女史を助けた。 ◆小川は水戸市出身であり1896年Dearing 宣教師より赤川潔夫人とともに受浸した。「被得の信仰」「新生命」「神を敬ひて足ることを知る」などの説教題が記録に残っている。 ◆しかし、伝道を妨害されたりし教会にとっては氷河期であったようだ。 |
上市裡南町 | 『水戸近代史研究1/4』 「いはらき」1908.4/26、5/3、『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄)『神によりてやすし』(日本バプテスト同盟京都教会) | |||
Dearing宣教師 (常盤地区担当) 非定住 赤川潔(1905-1908) | 1904年-1908年 | ◆水戸学生基督教青年会が弘道館でおこなわれ、赤川牧師は「高尚なる人格は富貴に勝り高尚なる人格はキリストより来る」と論じた。 ◆聖日礼拝は日曜の朝10時と夜7時に行われていた。「午前十時、吾人の審判者」(赤川潔氏)「午後七時、歴史上から見たるキリスト其二」(同氏)と1908年4月26日付「いはらき」にある。 |
上市裡南町 | 「いはらき」1908.7/5、7/19、8/2、9/13 | ||||
ジョーンズ宣教師 定住 渡部元(1908.10-1909.8) その後再び無牧 | 1908年- | 無僕の期間 前川伝道師(松本より赴任) | ◆10月渡部元牧師を招聘。 ◆1908年11.月22日の『いはらき』によると、「浸礼教会(裡南町通り) 午前十時、渡辺元氏、午後七時、「神の愛」同氏」とある。 ◆翌年1909年10月渡部牧師辞任。(根室浸礼教会より赴任。神奈川浸礼教会へ転出。) |
上市裡南町 | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編)『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄)『いはらき』(1908年11月22日)『日本につくした宣教師たち』大島良雄 | |||
ジョーンズ宣教師 定住 滝沢菊吉(1910.5-1911.9) | 1910年- | ◆5月に滝沢菊吉牧師来任、しかし1911年9月に大阪池田教会に転任。 | 『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | |||||
ジョーンズ宣教師 定住 小野村功 | 1911年9月〜1915年 | ◆『基督教名鑑』に「教会員54」とあり、また、「教会役員として 執事 高橋藤吉(洋服商・南町在) 同執事 庄司萬太郎(文学士、水戸中学校教頭・上市寺町在)日曜學校校長 宮田健次郎(上市八幡在)、書記 鈴木常治(教会内在)」の記載あることから、かなりしっかりした教会組織ができ、伝道が行われていたと思われる。 ◆しかし、1918年3月25日に「水戸の大火』と呼ばれる火事があり牧師をはじめとして多くの信者が被災したと思われる。 |
上市泉町4丁目(牧師の住所:上市南町423−5) | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 96〜100 宗教編:芳賀登ほか編) | ||||
ジョーンズ宣教師 定住 篠崎萬亀江 (1915.8-1919.3) その後無牧 |
1915年8月-1919年3月 | ◆8月、篠崎萬亀江牧師、土浦浸礼教会より着任。1919.3月 ◆しばらく無牧になり、「信徒と宣教師により維持してきたが、教勢なんとなく不振」と『基督教報』に記載されている。 |
『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 97〜100 宗教編:芳賀登ほか編)『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄)『いはらき』(1908年11月22日) | |||||
D.C.Holtomホルトム宣教師(1920-27) Charles Haward Ross宣教師(1920-27) M.A.Clagetteミス・クラゲット定住(1920-22) 吉田繁 (1921-1925) |
1921年〜1924年 | (しばらく無牧である上に、宣教師が不在のため教勢不振状態が続く。) ◆土浦浸礼教会より吉田牧師赴任。 ◆「花の日」を祝った写真が残されている。また、『いはらき』の1922.2.11付によると、午前十時礼拝、午後七時伝道『慕うこころは天に』説教者吉田牧師」とある。 ◆吉田牧師は真壁や笠間の伝道所にも定期的に説教に出かけている。 ◆八幡(福岡)浸礼教会へ転出。 |
上市泉町2丁目(現在のモリ商会のところ)(牧師の住所:上市京町1022) | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 96〜100 宗教編:芳賀登ほか編)『泉町今昔 泉町物語』(望月安雄)『いはらき』(1922.2.11) | ||||
中島辰蔵 | 1925年〜1929年 | ◆神戸葺合浸礼教会より赴任。教会・牧師の住所が上市裡南町に変更されている。(これは旧宣教師館に引っ越しただけ。会堂は与えられていない) ◆会堂建築の動きがめばえる。 |
上市裡南町(教会・牧師住所同じ) | 『基督教名鑑』教文館編輯(復刻版 皓星社発行『日本人物体系 96〜100 宗教編:芳賀登ほか編)『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | ||||
J.S.Kennard Jr.宣教師(1928-35) 無牧 | 内藤忠雄 | 青山学院神学部在学 | 備前町と天王町の境あたり。(会堂建築のため一時的な教会堂だったと思われる。 上市裡南町 | 教会資料第1号(1980) | ||||
1930年 | 内藤忠雄 | 青山学院神学部卒後赴任。 ◆ウィリアム・ヴォーリズ設計の三階建ての教会堂を献堂。(1931.11.3) |
同上・教会資料第1号(1980) 『ウィリアム・ヴォーリスの建築』(山形政昭著)『バプテストの水戸・平伝道』(大島良雄) | |||||
時田主事・(1936年以降) 内藤忠雄 | 1932年〜1941年 | ◆1932年12月30日受按。伝道師から牧師になる。内藤牧師赴任時は、「水戸は死んだようだったが、彼は生き返らせた。」(ケナード牧師) 会堂建築、早朝の祈祷会、伝道集会などを積極的に信徒と共に行った。1933年11月の2夜に渡った伝道集会は、200枚のポスター、4000枚のビラ、新聞広告などで宣伝した。この集会を成功させるために信徒は早朝6時に祈祷会に集まって祈った。(24名の参加)一日目200名、二日目250名の参加者を得た。町の知識人はほとんど、学校の校長、役人もやってきて、成功を収めた。 ◆これまで水戸教会はミッションの莫大な援助を受ける教会であったが、この時期には献金額は日本のバプテスト教会の中で10位以内に入るようになり、内藤牧師の伝道の力にはすばらしいものがあったと思われる。婦人会も組織されており20名程度の参加があったようだ。 ◆1941年、メソジストが合同することなどがあり、神戸下山手教会へ転出。後に日本基督教団神戸教区長として活躍。 |
上市裡南町(教会・牧師館) | 同上 | ||||
菅谷主事・ 鈴木浜(ヒロシ) | 1941年〜1952年10月 | ◆神戸葺合浸礼教会より赴任。宗教団体法により教会の名称が日本基督教団水戸南町教会に変更される。1941年無牧で2種教会だった日基、フレンド、メソジスト、セブンデー・アドベンストと合同。浸礼教会が教会堂を教団へ提供。(届出4部) | 同上及び教会資料(1980・1987) | |||||
◆日本基督教団南方派遣教師として、藤崎五郎と共にインドネシアに派遣される。◆1945.8.2水戸空襲で教会堂消失。 | 空襲で教会堂消失。 | 教団資料 | ||||||
鈴木浜(ヒロシ) | 1941年〜1952年10月 | ◆46年宗教団体法解除後、教団からセブンデー・アドベンスト、フレンド派は離脱。日本基督教会は紆余曲折後日本基督教団自由が丘教会にとして再出発。水戸教会はバプテスト同盟には加わらず、新たに日本基督教団の教会として歩む道を選んだ。矢口佐武郎兄(バプテスト派出身)が土地を献じ、現在地に移転後、日本基督教団水戸教会に名称変更。 ◆引揚者救援活動、農村伝道を積極的に行う。 |
砂久保町(現在地、新荘)に移転、教会献堂。(1948.1.13)矢口佐武郎兄(バプテスト派出身)土地を献ずる。 | 教会資料、現教会員からの聞き取り・教会資料(1980・1987) | ||||
◆留学経験を活かし、英語塾(聖光学園)を開き若者に伝道を広めた。 | ||||||||
◆教会付属の聖光学園保育部を創設。 | ||||||||
◆辞任して神戸へ。 | ||||||||
無牧 | 1953年10月1日〜1953年3月 | 週報 | ||||||
1953年4月〜1979年4月 | 広沢和人伝道師 夏季伝道師(同志社大) 1959/7−8 | ◆松山東雲学園より。バプテスト系以外の神学校出身(同志社)のはじめての牧師。 ◆クリスマス・キャロルを提唱、毎年行うようになる。 ◆受洗は受浸であって、戦前のように那珂川や専用プールではなかったが、現在の地での2代目の会堂ができるまでは、風呂桶を使っていた。旧会堂が献堂されてから、受浸ではなくなった。 ◆会堂再建築に着手。 ◆1960年9月〜61年3月アメリカ外国伝道150周年記念式典に出席のため渡米。その後アイオア州でアメリカ合同教会宣教師として伝道。 ◆「恩寵無限」と愛餐会での「英語版モモタロウ」が有名。 |
会堂新築、献堂。 | 週報、教会資料、現教会員からの聞き取り・教会資料(1980・1987) | ||||
本阿弥政一 (1905.4.22−1987.3.2) (大洗恵泉教会・潮来教会・石岡教会・前渡伝道所兼牧) |
江川永 聖ヶ丘教会より1960年12月〜61年4月 緑野教会へ | 週報、教会資料、現教会員からの聞き取り・教会資料(1980・1987) | ||||||
(代務:前橋教会・森下徹造牧師1965年2月〜5月) | ◆アメリカ東部での宣教伝道を行った。 | 週報、教会資料、現教会員からの聞き取り・教会資料(1980・1987) | ||||||
白神章道 (大洗・大貫恵泉教会兼牧)(1992年4月まで石岡教会も兼牧。) *協力牧師:木村勝則 |
1979年4月 〜 2006年1月 |
米加田周子(’87/5/28〜89/6/15) | ◆緑野教会より赴任。 | 週報 | ||||
大塚慎 (’89/6/15〜92/5/22) | ◆ミクロネシア・ポナペ伝道を20年以上にわたってを支援。毎年ワークキャンプに教会員・求道者を派遣。牧師も数回同行。 | |||||||
安藤博子(2000/5〜02/4) | ◆茨城放送ラジオの「こころのとも」を通じての伝道活動をする。音楽礼拝を積極的に行う。ゴスペルフォークで、ハンドベルで、パイプオルガンで、色々な形の音楽礼拝を提唱。保育園教育の充実を図り、伝道に努める。 ◆1996年献堂の現在の会堂建設に尽力。 ◆2002年から「ヨハネによる福音書」連続説教を続けた。 ◆愛唱聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ5:16〜18) ◆2006年1月21日召天。 |
新会堂献堂1996/10/21 | ||||||
松井初(2005/4〜現在) | ||||||||
無牧 *協力牧師:木村勝則 |
松井初 | 週報 | ||||||
松井初伝道師 (主任担任教師) *協力牧師:木村勝則 |
2006年5月- | 松井初 | ◆松井伝道師、主任担任教師となる。 | 週報 |