なかはらだより ー牧師の書斎からー

創世記9章の「契約」(2021/12/5)

 今号も前号の創世記9章の「契約」について考えてみることにいたします。その「契約」の特徴は創造者なる神が生きとし生けるもの全てとそれぞれ個別に契約を結ぶにあります(創世記9章10)。前号では生きとし生ける全てのあいだに平等があるということが言われていると書きましたが、今号では生きとし生ける全てがそれぞれ個別の存在として生存する権利があるということが言われていることに留意することにいたします。
 この「個別の存在として生存する権利」ですがこれは同時に「他の個別の存在の生存の権利」を認めるということを意味しております。このような思想を示している創世記9章の「契約」は「批判」を動機としているようです。おそらく「ダビデ・ソロモン体制」の支配原理の「全体主義」に対する「否」を示すためであったとおもわれます。
 創世記の1章から11章までは一つのまとまったものとして読むことができますがそこでの主題に「全体主義」に対する批判があるようです。それがどういう全体主義であったか。そこには隠喩の「善と悪を知る木の実」が出てきておりますがこれは次の価値観を示すものでした。すなわち、「善とは強さのことであり、悪は弱さのことである」。
 創世記の原初史物語の作者は「ダビデ・ソロモン体制」の支配原理がこの価値観であり、これが時代と社会の全体を支配する「全体主義」であるとみて批判したと言ってよいとおもわれます。この社会体制に対する批判は当局による弾圧をかわすため匿名でするほかなかった。その事情のなかで、創世記9章の「契約」は神が為した契約はこうであったと語る。つまり、隠喩物語に託して社会体制に対する批判をおこなった。ここから「しなやか」で「したたかな」生き方をうかがい知ることができるかとおもいます。
 今日の課題は「個別の存在が個別の存在として共に生き合う」ことにあります。創世記9章の「契約」は古代の文書ですがこの今日の課題に関わってくるものがあり、わたしたちを元気づけるものではないかとおもっております。

ノア契約  (2021/11/7)

 創世記の9章に記されている「ノア契約」は興味深い。そこは、創造者なる神が生きとし生けるものと契約を結ぶ場面でありますが、そのとき、神はその生きとし生けるものの全てとそれぞれ個別に契約を結ぶのです。
 つまり、人間ノアと契約を結んで、そのほかの生きとし生けるものは人間ノアに委託するというのではないのです。別言すれば、人間ノアは生きとし生けるものの代表というのではないのです。
 「ノア契約」に記されているのは、生きとし生けるものの平等。その平等は人間とそのほかの生きとし生けるものとの平等でありますが、さらに生きとし生けるもの全てにおける平等でもあるのです。
 これも別言すれば、神が契約を結ぶというのですから、神はその契約の相手が人間と同様の心を持つものとしていたということでもあります。
そうすると、こう言ってよいかもしれません。この「ノア契約」には「民主主義」がある、しかもここには「代議員」はいませんので「直接民主主義」がある。ここで実際、ノアは代表者ではありません。
 それゆえ、ここの「契約」の名称を「ノア契約」とするのは、適切でないかもしれません。この「契約」の直後に記されているのは、雨が降った後に天空に現れる七色の虹、それがこの「契約」が結ばれた徴となるということ。そうすると、ここの「契約」は「虹の契約」と呼んだほうがよい。
 ともかく、創世記の9章に記されている「契約」は「直接民主主義」で、「代議員」は全く無しとするもの。したがって、生きとし生けるもの全てがそれぞれに生きる権利とそして生きる責任を担っている。創世記では、この「契約」は「洪水」後の新たな出直しとしてなされたものであります。「洪水」は今日で言えば「パンデミック」(世界大規模の破局の危機)。
 そうすると、この「契約」を伝える物語作者は、「パンデミック」後の世界は「直接民主主義」であって、互いの関係は上下の関係では全くない世界であるとしている、と言えます。ここは、わたしには興味津々たるものがあります。

捕囚の中で (2021/10/20)

 パンデミック(世界大の規模の破滅危機)がつづいているようです。この現代の問題ですが、古代の文書の創世記6章から始まる洪水物語にあつかわれております。物語によりますと、ノアは生きとし生けるものたちと共にその危機を乗り切るため、箱舟にて生活をはじめます。洪水の原因の大雨は40日40夜つづきました。聖書ではこの「40」という数はかなり多いという意味です。そうしますと、そのあいだずっと箱舟のなかの生活がつづいたわけで、そうとうに長い期間ということになります。この箱舟における生活は現代の問題にことよせて言いますと、外に出て活動のできない、いわば「自粛」の生活であったと言ってよいかもしれません。
 わたくしの関心は、その期間、いったいノアたちは何をしていたのかにありますが、それはしるされておらず、推し測るほかありません。この洪水物語はじつは歴史にかかわっていて、この期間というのは「バビロン捕囚の期間」のことをさしていたとおもわれます。このバビロン捕囚のとき、ユダの捕囚民たちは何をしていたかと言いますと、捕囚が終わった後の自分たちのありようについて、過去の歴史をふりかえりつつ、考え合っていたようであります。
 この期間、ユダの捕囚民は「文書」を集め、保存し、それらを編集し、組立てるといったことをしていったようです。この創世記6章からはじまる洪水物語もその時に準備されたものとおもわれます。今わたしたちが読むことができる聖書はそのお陰によるものと言えます。この歴史は、わたくしには「教訓」となるものであります。わたくし解するところ、創世記1章から始まってから11章の結びに至る物語は、「原初史物語」と呼ばれていますが、その中心に6章からの洪水物語を置いた、とおもわれます。
 この洪水物語が発しているメッセージは、パンデミックの静まるのが見通せないなかで、しっかり聴いてゆきたいと心しているしだいです。

ヨハネ黙示録 (2021/7/8)

 パンデミック(コロナ感染症の世界大規模の蔓延)について考えていたとき、気づいたのはそれと類似のことが新約聖書の「ヨハネ黙示録」に出ていること。類似しているのは「大規模破壊」が起こるとあるところ。今号はそれについて書いてみましょう。
 ヨハネ黙示録の著者の言っていることは、神の啓示を記した書が小羊によってその封印が解かれ開示された。8章にはこうあります。7人の天使たちがラッパを吹くために集められ、その天使たちが小羊によって開示された啓示の内容をラッパで吹き鳴らす。その内容はこうです。
 第一の天使がラッパを吹いたとき、「血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一焼け、すべての青草も焼けてしまった。」第二の天使がラッパを吹いたとき、「火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また被造物で海に住む生き物は死に、船という船の三分の一が壊された。」この後、著者はこう記す、「一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。『不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち』」。このヨハネ黙示録の著者によれば、その「大破壊」には原因がある。それはローマ帝国の支配が続くことに。
 これと同じ「大破壊」のパンデミックはこの国において起こっています。それを挙げてみますと、「広島」「長崎」に投下された原子爆弾によって、「水俣」において企業の流した水銀汚水によって、「福島」における原子力発電所の原子炉破壊によって。この国の民衆はパンデミック(大規模破壊)の苦難を強いられてきています。このパンデミックの原因はヨハネ黙示録の著者に言わしめると、ローマ帝国と類似の国家権力支配が続いているがゆえに。
 このたび考えさせられたのは、「パンデミック」(大破壊)が起こると警告を発している「ヨハネ黙示録」が新約聖書として最後に置かれ最終メッセージとなっていること。この書を最後に置いたとき、その意味を込めていたわけではないでしょう。が、今日の状況を考えると、この最後位置は意味深長なことになりますね。

尊厳 (2021/6/10)

 前号で「尊厳」ということについて書きました。それはこういうことでした。
 沖縄の辺野古に軍事基地をつくるための土砂を沖縄島の南部の地から調達する計画を防衛省が示したが、それは人の「尊厳」を傷つけ破壊するもの。なぜなら、その地には、あの沖縄が強いられた地上戦において犠牲にされた方々の遺骨がなお残っており、その収集がなされてきたがなお続けられている、その地の土を軍事基地の設置の埋め土にする、これは人の「尊厳」を傷つけ破壊すものと言わざるをえない。
 今号もこれと同様の問題について書くことにいたします。新聞の報道によると、政府の高官についている人が、現状のコロナ禍は「さざ波」の程度であり、「これで五輪中止とかいうと笑笑」と言ったという。わたくしはこの新聞報道を読み寒々としたものを感じました。その理由を言いますと、この政府高官の発言はコロナ禍で命を失った方々のことを「さざ波」が起こった程度であると表現する、これは人の尊厳を傷つけ破壊するものであると言わざるを得ないからです。
 かつてこの国は戦争をおこなっていたとき、軍の高官たちの大本営は自国の兵士が次々に死傷し、隣国の方々が殺傷されてゆくのを「さざ波」の程度とし、そのように大本営発表したのでしたが、このたびの政府高官の発言はそれと同類のものではないかと、わたくしにはおもわれるのです。
 今、憂慮していること。これも新聞の報道によればですが、人権に関わる議論のとき、国会議員の発言には聴くに堪えないものがあり、この国会議員たちに人の尊厳ということについての感性が失われてしまっているのではないか、と、そうおもわざるをえないでおります。
 人の尊厳を傷つけ破壊する、これは感染症のように伝搬してゆく性質をもっているようです。うっかりしていると、わたしたちもそれに感染し、人の尊厳ということについて顧慮する感性を失ってしまいかねません。
今、わたしたちには、この空気の中で眠りこまされない、覚めていることが求められているのではないか。と、そう自らを省みているところであります。

今、沖縄で (2021/5/11)

 今号は購読する新聞に掲載されていた沖縄の辺野古についての記事について紹介することにいたします。その記事の内容はこうです。沖縄の辺野古に軍事基地をつくるために必要な大量の土砂を沖縄島の南部の地から調達する計画を防衛省が沖縄県知事に出した。
 実は、そこは沖縄戦にて犠牲にされた方々の遺骨が残り、その遺骨の収集が戦後ずっとなされ、今日なお続けられている地であります。あらためて言うまでもないことですが、沖縄戦で犠牲にされた方々の遺骨の収集は国家の責務、遺骨を家族のもとに届けることは国家のなすべき第一のことであります。

 このたびの防衛省の発表した計画は、国家としての責務を放棄したものとなりますが、ここには、さらに、問題になることがあります。それは防衛省の発表した計画は、沖縄戦で犠牲にされた方々の遺骨を含む土を新軍事基地のための埋め土にするというものであるからです。この防衛省の発表した計画は、なんと表現したらよいか。これは人間の尊厳を傷つけ破壊するもの、そう言わざるを得ないのではないかとおもわれます。

 というのは、沖縄戦で犠牲にされた方々の遺骨を含む土をなんと新軍事基地のための埋め土にするというのであるからです。新聞は、遺骨収集に取り組む団体の代表の具志堅隆松さんがこのたびの防衛省の計画に抗議し、沖縄県庁前で六日間のハンガーストライキを断行された、と報じております。
 そして、具志堅代表の言葉を掲載しています、「沖縄でこんな非人道的なことが行われようとしている」、と。沖縄の県議会の各会派はこのことでは同一歩調を取り、遺骨を含んだ土を埋め土にすることの停止を求める意見書を政府に出したとのことであります。
 政府は「コロナ禍」の対応で誤謬を重ねているのですが、このことで誤謬を犯すことにならないよう願うばかりです。防衛省が出した計画が実施されると、このことは後で取り返しのつくことではないからであります。

札幌地裁の判決 (2021/4/10)

  このたびの札幌地裁の出した「同性婚」に関する判決について、その内容を新聞報道によって紹介しますと、民法や戸籍法が婚姻は異性間でなければならないと規定しているのは、憲法に反し、違憲である。その根拠は次のとおりである。
 まず基本的に、憲法14条の「法のもとでの平等」の権利、それを国民は有しているゆえに。
 また、憲法24条にある婚姻に関する規定は、婚姻には「両性の合意」と「両性の平等」が権利としてみとめられているとしている。つまり、憲法24条の規定は「合意」と「平等」の権利について述べており、それ以上でもそれ以下でもないゆえに。
 そういうしだいで、憲法から「同性婚」の権利を認めないとする規定を引き出すことはできない。
 これが札幌地裁の出した判決の内容でありますが、極めて正当なものであると考えます。ようやく正当な判決が出ました。歓迎するしだいです。

 ここで、聖書の創世記に結婚に関することがしるされておりますので、そこのところをみておくことにいたします。創世記2章の記述に、男と女が結婚するとありますが、この記述は文脈の中で読まれなければなりません。

 その結婚に関してしるした創世記2章24節にこうあります、「男は父母を離れて女と結ばれ」。

 ここで留意すべきは、「男は父母を離れ」というところであります。この文言で言われていることは、男は父母の家を離れること、すなわち、男は家を引き継ぐことをしないということ。つまり、ここで言われていることは、社会を支配していた「父権制」、それを無くしてゆくこと。創世記2章が男と女の結婚について書いたのは、このことを言うためでした。
 それゆえ、創世記の男と女の結婚の記述を文脈から取り出し、それを結婚の原理規定にすることは、聖書解釈を間違えることになります。キリスト教はこの間違いの聖書解釈を続けてきております。 わたくしはその解釈を棄てるべきことを言い続けてきているのですが、このたびの札幌地裁の判決に接し、それをいまいちど繰り返すしだいであります。

核燃訴訟 (2021/3/13)

 このたび宗教者による核燃訴訟が開始しました。その第1回公判が昨年の12月17に東京地裁にてありました。訴訟を提起した宗教者の共同代表の二人のうちの一人に畏友の岩田雅一・八戸北伝道所牧師が推挙され就任しました。提訴されたことは「六ケ所再処理工場運転差止請求」であります。畏友からその訴状の要旨を記した文書をいただき読む機会を得ました。その文書は訴訟の原告の代理人の河合弘之弁護士が書かれたものでした。ここにその文章の一部を紹介いたしますと、

「日本の宗教者がついに立ち上がりました。
 原子力発電が許されない理由は二つです。その1は重大事故が発生したときの被害の巨大さ、深刻さです。その2は使用済核燃料を後世に押し付ける非倫理性です。再処理工場を止めに入るということは日本の原発問題の本質に切り込み、息の根をとめるということなのです。 そして安全で後世にもやさしい日本が実現されるということなのです。日本の宗教者はこのことに気が付きました。これが今回、宗教者が立ち上がった根本的な理由です。
 今回の訴訟の大きな特長の第1は、後世に危険な使用済核燃料、特に再処理の高レベル廃棄物を押しつけることは許されないということを差止の理由にしていることです。」

畏友はこの問題に関わり、この問題に全てを傾注し続け40年ほどになりますが、この間、この問題に関する著書と写真集を数多く世に出し問うてこられました。畏友は、旧約聖書に登場する預言者が世界の危機の因を造成する世の権力当局を問い続けた役割、それを今日担い続けてきており、わたくしは常に新たに問われてきました。
 この3月11日、東日本大震災による福島の原発の原子炉破壊の大惨事からまさに10年となります。このたびの宗教者による核燃訴訟に大きな歴史的意義がさらに加わっているとおもいます。
 折しもこのたび国連が提唱する「核兵器禁止条約」が発効することになりました。関心を持ち続けてゆく所存です。

3月11日 (2021/2/12)

 このたび次の書を読みました。書名は『孤塁』、副題は「双葉郡消防士たちの3・11」(岩波書店刊)。
 この書は10年前の東日本大震災による惨事、ことに福島の原子力発電所の原子炉破壊による大惨事の現場で働いた消防士の方々からの聞き取りを内容としています。
 わたくしは本書に記載されている事実の報告に圧倒され絶句するほかありませんでした。ことに第2章「暴走する原発」、第3章「原発構内へ」には、双葉郡消防士の方々の「壮絶な」という表現をもちいてもなおそれを超える激烈な苦闘が記載されており、読むわたくしは息が止まる思いでした。著者は吉田千亜という方であります。本書の「あとがき」に書いておられることを紹介しますと、

 2018年10月から双葉郡消防本部に通い、原発事故当時に活動し、現在も活動を続けている66人から話を伺った。
一人1時間半から長い人では4時間
以上、各人1回~3回ほど、当時のことを聞き続けてきた。
一人一人がさまざまな思いや苦悩 を抱えるなかでそれを聞かせてもらい、文字にすることは、常に「伝えたい」「残さなくてはならない」という思いと、「申し訳ない」「恐れ多い」という思いの繰り返しだった。

 本書はこの「あとがき」から分かりますように、長時間におよぶ聞き取りの労と、これに応じられた消防士の方々の苦悩のなかからの当時についての想起によって成ったもので、まことに貴重で重要な書であります。本書からひしひしと伝わってくるのは、原子力発電所は「人道に反する」ものということ。というのは、事故の際、消防士の方々にこれほどの激烈な苦闘を強いることになるからであります。
 ところで、新聞の報道によれば、この1月22日に、国連で採択されていた「核兵器禁止条約」が発効するに至った。核兵器と原子力発電所のつくるプルトニウムは密接につながっている。本書はこの意味でも意義のあるものであるとおもいます。

パンデミック その2 (2021/1/10)

 

 前号に紹介した本『緊急提言パンデミック』の著者のユヴァル・ノア・ハラリは、このたびのコロナ・ウィルス禍のパンデミック(世界大流行)について歴史学の立場から提言している。貴重な提言であると思われるのであらためて紹介しよう。
 著者は強調する、コロナ・ウィルスのような感染症が世界大流行となるのを止めた世界史における事例から学ぶべきである。ここで、著者が示しているその事例から得ることについて、箇条書きふうに言ってみると。
 隔離と移動制限に感染阻止の効果はある、が、それは短期的なものであって、再発に見舞われることになろう。実際、隔離と移動を長期的にすることは、石器時代にもどるというのなら話は別だが、それはできない相談だろう。
 コロナ・ウィルスのような類のものは、一滴の水が万人に災厄をもたらすようなもので、たった一人の感染者からあっという間に感染が拡散してゆく。一つの国家が鎖国をしてそれで自国を一時的に守り得たとしても再発に見舞われることになろう。自国だけ助かるということはありえない。
 これまでコロナ・ウィルスのような類のものが世界大流行となるのを止めた事例は、世界の科学者・医者・看護者が総動員で、感染に関する情報の収集・分析・治療に当たったことによる。すなわち、国際的な協力があって為し得たことである。
 感染に関する情報の提供が必要となる。このとき、その情報を提供する者とそれを受ける者との間に信頼の関係を結ぶことが不可欠の条件となる。
 その情報はできるだけ多くの者たちから集められる情報であるべきで、情報は皆に共有されなければならない。
 ここは「科学」の出番である。科学が感染症の流行の背後にあるメカニズムを突き止め、流行を止める有効な手段を示す、それが肝心なことであり、この科学の示すところを重んじる、それがなくてならない。
 この本の著者は言う、このようなことをするほかに、このたびのコロナ・ウィルス禍に抗する道はない。そして、このようなことをするなら、世界は自国主義の強欲を棄て、共生へと進むことになろう。
 これは貴重な提言であると思う。  (下田)

パンデミック (2020/12/1)

 このたび次の書を読んだ。書名は『緊急提言 パンデミック』(河出書房新書)。著者はユヴァル・ノア・ハラリ。エルサレムのヘブライ大学で歴史学を教えている。
 読後の感想は良書に出会った。内容を若干紹介すると、著者によれば、ただ今の「新型コロナウィルス感染症」の「パンデミック(世界的大流行)」は、この人類世界にとって「歴史を作る時」である。
 著者は、ただ今の「コロナ禍」は人類世界の存続にとって危機であると同時に「歴史を作る好機」であるとする。
 著者は、ウィルスの感染が国家による「閉鎖的遮断」で止められ得るものではないことを、これまでの人類史から詳述。そして、ウィルスの感染を防止するために有効であったのは国際的な協力によるものであったことを詳述。
 著者は言う、ただ今の「コロナ禍」を克服するには、その国際的な協力を構築するほかに道はない。ところが、近年、富める国家はこの医療の国際的協力の分野に関し、これを軽んじてきた。
 ことに「自分が第一」とするアメリカ国は、これまでの役割を放棄、念頭にあるのは自分の利害に関することだけ、国際社会における信頼を失った。アメリカ国は世界の中で「味方」と「敵」を作るだけで「友」を作らない、むしろ「友」を失った。
 この本の著者は日本国について批判的言及はしていないが、この国も似たようなことをしていないか。
 この本の著者はウィルス感染を止めるために有効な働きをしたのが科学(医療)の国際的協力であったと述べる。この指摘から考えさせられる。
 この国の政府のすることは「自粛」の勧め。各自の主観にまかせる。そんな感じにみえる。
 政府は予算措置権が認められているのであるから、その限りにおいてであるが、為すべきことがいろいろあるのではないか。政府は予算の用い方が「御粗末」なそれとなっていはしないか。
 この本から示唆されたことは多く、その紹介を次回にも続けることに。 (下田)

「コロナ禍」でかんがえたことの続き (2020/11/1)

 前号で、「新型コロナウィルス」についてのにわか勉強で読んだ本の中の『コロナ後の世界を生きる』にある論文のひとつを紹介したが、今号はそこに掲載されている論文をいまひとつ紹介する。
 論文名は「緊急事態と平時で異なる対応するのはやめよ」、論者は阿部彩という方。論者の述べるところを、わたくしの言葉で紹介する。
 論者は、平時において電気・ガス・水道などのいわゆるライフラインが止められ生命の存続の危機にさらされた世帯の数を資料に基づき示し、この問題の解決をこれまで訴え続けてきたが、国会で取り上げられることはなかったと述べたうえで次のように述べる。
 このたびのコロナウィルスという緊急時では、政府は救済策を提示、自分はもちろんそれに賛意を表するが、しかし、ここで問わなければならないことは、平時の困窮と緊急時の困窮は何が違うのかということ。言い換えれば、「救うべき貧困」と「救わなくてもよい貧困」の線引きがなされるそれが続くのだが、このことは問われなければならない。
 生活保護法はこの法の定める要件を満たす限り、この法による保護を無差別平等に受けることができると規定、生活困窮に陥った原因による差別を禁じている。なぜ困窮しているのかという問いそのものを問わない、線引きはしないということである。
 これは日本国憲法の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の規定に基づく。ここに「線引き」の議論は入り込むすきはない、すべての国民の権利である。このたびの緊急時においても、困窮そのものだけを見て、国民の権利を淡々と保障してゆくべきである。
 論者は言う、生活保護制度の支給要件を緩和、手続きを簡略化し、今困窮している人への支援を広げる、そうすれば、生活保護制度がすべての人々のセーフテイネットとして機能し利用しやすい制度であることが認識される。この論者の述べるところに、わたくしはもろ手を挙げて賛成する。わたくしの納める税金はこのために用いられるべきだ。 (下田)

このたび考えたこと (2020/10/4)

  このたびの「新型コロナウィルス」についてまったく無知でしたので、にわか勉強をし、数冊の本を読んでみました。
 ここで紹介したいのは、『コロナ後の世界を生きる』(岩波新書)の中で、黒木登志夫という方が述べているところです。そこに述べられていることはこうです。
 新型コロナウィルスの感染を証明するためには、PCR検査によってウィルスのゲノムを同定する他に方法はない。当然の帰結として、PCR検査なくしてコロナ対策もありえない。
 専門家会議は発表した見解の中でこう述べた。「全ての人にPCR検査をすることは、有効ではありません。重症化のおそれのある方の検査のために(PCR検査を)集中させる必要があると考えます。」
 つまり、PCR検査は、感染症同定のためではなく、重症者をみつけるために行なわれたのであった。
 このPCR検査であるが、感染症法により行政検査という枠がはめられており、行政が必要と認めたときだけ検査が承認される。行政機関が認めなければ検査ができず、その上、検査するのもこれらの行政機関に限られていた。
 PCRは特殊な検査ではない。どの病院でも日常的に検査しているし、民間の検査会社も高い技術を持っている。それなのに、厚労省官僚は、患者よりも、感染予防よりも、官僚的整合性を優先させ、PCR検査をコントロールした。
 しかし、世間の反発は大きく、ついに3月6日に医師が必要と認めれば保険診療として検査ができるようになった。
 行政検査となると検査数は限られてくる。政府はPCR検査を制限するために、さまざまな条件を付けた。その一つが、「37.5度以上4日間の発熱」であった。
 この条件のためにPCR検査を受けられない人が続出し、発見が遅れた感染者が出た。政府は、5月8日ついにこの制限を外した。
 以上のようなしだいで、新型コロナウィルス感染者の拡大が生じた。 これを読んだ方々はどう思うだろう、おそらくみな、この国政府の行政に対し信頼を失うのではないか。これはしかし、信頼を失うことで済むことではない。 (下田)

八月の中で思ったこと (2020/9/6)

  わたくしは毎年八月という月を「戦争」について考える時にしているのですが、今年の場合は考えることがいまひとつあり、それは新型コロナウイルスのことでありますが、それがあって思いが分散し集中しないまま八月がすぎてゆこうとしているので、少し考えておかなければと思い直してみました。
 前号では「戦争責任を起点として」にこだわっていると書きましたが、もう少し書き加えておくことにいたします。「責任」という言葉を用いておりますのは、戦争について「加害」の側面から考える、それを自分の課題にするためであります。
 ここで、わたくしがその「加害」の側面について考えるとき、自分の中で留意していることがあります。それは「戦争犯罪」と「戦争責任」を分けて考えるということであります。政治哲学者のハンナ・アーレントは戦争犯罪と戦争責任を分けて考えるべきと述べていますが、わたくしもそうしたほうがよいと考えています。
 わたくしは自分に戦争犯罪の罪があるとは思っておりませんが、自分に戦争責任はあると考えております。わたくしがこの言い方で言っていることは、次のようなことです。
 あの戦争が生じたことについて、わたくしはその罪を犯す世代に属していません。が、あの戦争について、いかなる要因によって生じたか、出されているいろいろな見解を参考にしながら、自分の意見を持ち、戦争につながりかねない危険な方向には批判をしてゆく、これがわたくしの言う「戦争責任」です。
 わたくしが歴史から教えられていることは、戦争へと至らせる要因が集合してしまうと、戦争への道を遮断することは極めて難しい、不可能に近いとさえ言い得るということです。
 「戦争責任を起点として」は、その不可能に近いことに至らないために、戦争の要因について、過去の歴史に学びつつ、今日それが生じていないか、その問いを続けてゆくということですが、これは、未来に同じ過ちがおこらないよう、未来への責任を、自分たちが今生きている時間の中で、いくらかなりとも果たそうとする志し、ということになるかとおもいます。 (下田)

「平和聖日」に思うこと(2020/8/2)

 わたくしがこれまで歩んできた道は「戦争責任を起点として」の道でした。平和について取り組む前に、戦争の政策に否を示せなかったことについて問い直すことのほうを先にすべきではないかとしてきました。
 しかし、この道をゆくについては、ことに、いつまでもこの道にこだわっていることについては、批判が投げかけられてきました。たしかに、この道でゆくのは平和について取り組むには遠回りにすぎる、もっと直に取り組む道をゆくべきだとする批判には真理がある、と思います。わたくしもその批判に同意し、その道をゆくことに努めてきました。
 しかし、「戦争責任を起点として」の道は遠回りの道のようでいて、これのほうが直に行く道ではないかと、これは始めから思っていたことではありましたが、今日その思いが強くなってきております。
 ここで、あの戦争の原因について振り返っておきますが、この国日本の政策はアジアの中に、ことに朝鮮半島と中国大陸に、この国日本の中で貧困を強いられていた地域に生活していた人々を送り込んでゆき、侵略をするこことなりました。
 それゆえにです。この国日本の平和への道は、このことについての心からなる反省から始めるほかありません。
 いま「心からなる反省」と書きしました。その意味するところは、「反省」が「心からなる」ものであるということ、それは「いつまでも反省の心を持ち続けている」ということであります。
 したがって、「反省したのだからそれで済んでいる」というありよう、それは賠償金を出せば済むというありようであり、これは人間と人間の交わりを造ることにはならない、それを破壊することになる。実際、その破壊がくりかえされています。 この現実をふまえたとき、「戦争責任を起点として」は平和への道として意味を失っていない。わたくしは、これを言い続けてゆこうとおもっております。 (下田)

「コロナウィルス禍」の中で考えたこと(2020/7/5)

 このたびの「新型コロナウィルス禍」で困ったことは、対面の対話や議論を差控えたことによって忍び寄ってきた沈滞感に囚われたことであります。ここのところ、対話・対論をしてくださった先達の先生たちをおおくりし、寂しさに襲われていたものですから、このたびはややまいりました。本を読んで対話し議論する自分を保とうとはしましたが。
 あらためて聖書という書物を読んでみました。聖書の主語は神なのですが、その神が「わたしは」と文字通り主語で語るときというのは、その語りかけた相手に、ほとんどの場合、具体的なことを委託し、それに応じるよう要求するのです。
 その相手がその要求をそのまま受ける事例はありますが、むしろ要求する神に対話を求め、議論さえしている事例が結構多いのです。そこで思ったことは、聖書の主語の神はその語りかけた相手に対話を求め議論し合うことを求める方ではないのかということです。
 そこで思い出したのが旧約聖書のヨブ記です。ヨブ記の著者は最後まで議論し続けるヨブを描きます。ヨブの友人たちとの議論は長々と続きます。ここではその議論の内容には立ち入らず、議論し続けるヨブに焦点を絞ります。
 ヨブは友人たちとの議論では満足せず、神との議論を要求します。友人たちは神との議論を要求するのは高慢の罪を犯すとし、やめさせようとします。が、ヨブは神との議論を要求し続けます。
 ここでヨブ記の最終章に飛んでしまいますが、そこに描かれていることは、神が登場し言われたのは、神との議論を要求したヨブは正しく、その議論をやめさせようとした友人たちは間違っている、ということであります。
 このヨブ記から気付かされたのですが、「新型コロナウィルス禍」で対話と議論を差し控えたことによって忍び寄ってきた沈滞感に囚われている、これは困ったものだということ、であります。
 聖書に向き合い、これと対話し議論してゆく意欲、これはいつのときでも必要なことですが、とりわけ今のとき必要なことであるということ。それをヨブ記から気付かされました。むろん、あのように意欲的になれるか、それはともかくとして。  (下田)

「 転 換 」(2020/6/7

 物理学者の池内了は、2011年3月11日の福島の東京電力原子力発電所の崩壊によって生じた悲惨は文明の転換点としなければならない、そうしないと人類史は閉じることになる、と語る。
 池内の言う「文明の転換」とは必要なエネルギーを「地下資源」から「地上資源」に求めることへの転換である(『原発事故との伴奏の記』)。
   *
 この池内の訴えはこのたびの新型コロナウイルスの災害についても言い得ることではないかとおもわれる。
 人間の生命防衛のためとしてきた軍事費を削減、それを人間の生命を守るための福利的なことへと向ける転換-このたびの新型コロナウィルス災害はその転換への起点とする。こうしなければ、人類史は危ういことになる。
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 創世記の洪水物語は箱舟の建造を神の意思であるとする。ここには歴史の背景がある。ユダ王国にバビロニア帝国の大軍隊が迫ってきた。洪水物語の洪水はその大軍隊の迫るさまを表現する比喩。ユダ王国は武力で応じ、その大軍隊の大洪水によって壊滅、バビロン捕囚となった。洪水物語はその捕囚期に書かれた。
 洪水物語の作者はこの歴史を振り返りこの洪水物語を書いた。ユダ王国はバビロニア帝国の大軍隊に武力をもって応じたが、あの状況のなかでは箱舟を建造すること、そこに生きとし生けるものの生命を保全すること、それをすべきであった。
 洪水物語の作者は、バビロン捕囚から解放されるときがきたら、この反省を活かさなければならない、その思いを込めて洪水物語で箱舟の建造について書いた、そう言ってよいのではないか。
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 この創世記の洪水物語は、今日この状況のなかにある地上世界に対し、これ以上にない良いメッセージを語っている、とおもう。教会は聖書について語るよう委託されている。この創世記の洪水物語、これほど今こそ語るにふさわしいものはない、そう言ってよいのではないか。

「箱舟を造れ」の続き(2020/5/3)

 前号に「箱舟を造れ」と題する文章を書いた。これに関してもう少し書いておきたい。創世記の洪水物語の洪水は比喩表現で戦争を指す。戦争ほど殺戮と破壊を引き起こすものはないが、この戦争をそう直に言うのではなく別な言い方で言うとすれば、戦争に最も近い洪水が適当ということになろうか。洪水も殺戮と破壊を相当甚大に引き起こす。
 ところで、戦争が洪水のように押し寄せてくるとき、自国を守るのは武器であり、その武器の最も強力なものは現代では核兵器であるということになっているのだが、ここで、「しかしながら」、と言わなければならない。その最も強力な武器である核兵器が役に立たないことがある。それを証明したのが今日の「新型コロナウィルス」に対してである。その甚大な災害に対し核兵器はなんら役に立たない。
 新聞報道によると、今日の「新型コロナウィルス」の伝染浸透に苦しめられているのは、強大な核兵器を保有する国々のアメリカ、ロシア、フランス、イギリス、ドイツ、中国であるという。ここには、ひとつのメッセージが発せられているのではないかとおもわれる。すなわち、今や、核兵器の製造と保有は意味を失った。これからは、それに代えて、病院の建設、薬の開発、避難する施設の用意、そのために労する者たちについての準備、こういった福利的なすべてのことをなす、それをこの時を契機に始めよ。
 前号に、創世記の洪水物語の作者は神から「箱舟を造れ」と命じられたということ、それを紹介したが、この「箱舟を造れ」も、武器の製造と保有をやめて、それの代わりに福利的なすべてのことをするようにとの招きであったと解される。そのうえで確認しておきたいことは、この洪水物語の作者によれば、神の言われたことには、その福利的なすべてのことに入るのは人間だけではなく、生きとし生けるものすべて。そうすると、これを実行するには世界のすべての所を福利的な所にするほかない。これが創世記の洪水物語のメッセージのようだ。

箱舟を造れ(2020/4/5)

 創世記にえがかれている洪水物語の「洪水」は比喩表現で「戦争」をさしており、今日ではその戦争に核兵器が使われ、放射能という「見えない敵」によって深刻な被害の事態が生じるゆえ、この深刻な危機を訴え続けることが今日の平和運動であると言い続けてきたが、その「見えない敵」として「新型コロナウィルス」のような病原菌のことに思い及ぶことはなかった。これはうかつなことであった。
 レイチェル・カーソンは『沈黙の春』で、近代の科学技術がつくった「殺虫剤」が全ての生きとし生けるものの命を奪い、やがて人の命を奪う「殺人剤」となる、これは近代科学技術がつくりだす「見えない敵」であって、これが今日の世界に襲来していると警告、これに対し批判的に対峙せよと訴えているのだが、わたくしはこの訴えを受け止めていたにもかかわらず、創世記の洪水物語の洪水について語るとき、今日生じる「見えない敵」についての考察に欠けるところがあった。これは聖書を今日のこととして伝える者として反省が求められるところであると言わなければならない。今日、創世記の洪水物語の洪水について語るとき、今日の文明社会にひそむ「見えない敵」を洞察する問題意識が求められる。わたくしはこのたびこのことを思い知らされた。

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 創世記の洪水物語によると、天と地を創造した神は人間ノアに命じた、「箱舟を造れ」、と。
 これは洪水の襲来のとき、その被害から逃れる場を造れという命令。洪水物語の作者は、天と地を創造した神は逃れの場としての箱舟を造れと命じたとき、人間のゆえに地上の世界において深刻な被害の事態が生じるということを想定しておられた、そう語ったと言ってよいだろう。物語作者によれば、人間ノアはこの神の命じるところに応じ、逃れの場としての箱舟を造った。これが創世記の洪水物語の作者の伝えるメッセージであると言ってよいだろう。
 これは今から2千5百年まえに発せられたものであるのだが、今日のわたしたちが聴くべきメッセージとなっていると言ってよいだろう。しっかり聴いてゆきたい。