土の器であるけれど 加藤満
 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです。」Uコリント4:7

 今回もまた、NC2010のテーマ“キリストに生かされて”について考えていきたいと思います。私たちは日々の信仰生活を振り返る時に喜びもありますが、むしろ“あぁ、神様に従うって大変…”と思うことの方が、実は多いのではないでしょうか? 弱さを持つ私達が信仰生活を送るのは容易な道程ではないと思います。しかしあのパウロを思う時、彼も弱さを持つ中でキリストに従っていました。今回は“キリストに生かされて”いく私たちは“弱さを持つ者が生かされる”のだという事をUコリント4:7から見ていきたいと思います。

 最初に、御言葉から私達が神様からどのようなものを受け取っているのか、また受け取る人間はどのような存在であると書かれているのか見ていきましょう。
パウロは上記の御言葉で私たちは“宝”を受け取っているのだと書いています。この宝とは“福音”の事です。前回にも書かれましたが、福音は堕落によって喪失された神のかたちの回復をもたらすものです。また6節では神はこの福音により「私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださる」と書いています。パウロはこの福音の素晴らしさを、まるで光り輝いている“宝”のようであると表現しているのです。

 では、それを受け取る私たちはどのよう存在であると書かれているのでしょうか。パウロは自分自身の事も含め、それは“土の器”であると書いています。土の器とはどんなものでしょう。鉄や銅など金属のような頑丈さはないし、ダイヤモンドやパールのような鉱石ほど価値のあるものではありません。とてももろく、また価値無きに等しい物。パウロは人間とはそのような存在であると書いているのです。

 では、そんな弱い私はどうすればいいの!って思いますが…  パウロはこう説明しています。
「弱くもろい“土の器”に福音という“宝”が入れられたのは、その福音という“測り知れない力”が、私たちから出たものではなく、“神様のものである”という事が明らかにされるため」だというのです。私たちは罪の前に自分の弱さを感じる時“あぁ、自分は従う強さの無い人間なのだ”と考えてしまいがちだと思います。しかし、パウロはその弱さは、むしろ、“測り知れない神様の力が既にあなたの内にあり、その力が表わされるためにあるのだ”と言っているのではないのでしょうか。それはまるで、欠けだらけの器から光が漏れ出るかのように…

 当然、その弱さを解決するための努力も絶対に必要だと思います。しかしその時に“私はがんばらねば”と思うのではなく、“私は弱い者です 神様が働いてください”と祈れたら良いなぁと思うのです。“キリストに生かされ”ること… それは自らの弱さを認め、その中で神様の“測り知れない力”に目を向けていく事なのではないでしょうか。

 「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」Uコリント12:9

 このような告白ができる者へと、変えられていきたいと願います。

(PILE UP第3号より)

キリストの姿へと 平田裕介
 今回から、NCのテーマである「キリストに生かされて」とはどういうテーマなのかを、さまざまな角度から考えていきます。前回の記事で岸本主事が、「救い」・「献身」・「派遣」の3つのキーワードを挙げておられました。まず今回は、「救い」について思いを巡らし、深く感謝するときが必要だと思い、「キリストに生かされて」いるとはどういう状態なのか、「新しく造られる」という側面から考えてみたいと思います。

 NC2010テーマ聖句の直後にあるUコリント5:17には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。」とあります。この「新しく造られる」、すなわち、よく再創造といわれるこの状態を考えるためには、創世記の創造の御業を思い起こさなければなりません。
 
 御言葉によると、最初人間は神様のかたちを持つものとして創造されました(創世記1:26,27)。他の動物と違い、人間には神様と同じく人格が与えられ、義と聖をもって地を治めるという特別な役割が与えられ、そして神様との親しい愛に満ちた交わりが許されていたのです。しかし、このような特権を与えられていたにもかかわらず、人間は罪を犯し、神様との交わりから堕落し、この神のかたちを失いました。
 
 恵みのゆえにキリストによって贖われるとは、このような、人間の本来あるべき姿や、神様との正しい関係が回復されることだと言えます。「キリストに生かされて」いるということは、人間が罪を犯す以前の、本来あるべき姿へと造りかえられていく状態にあるということではないでしょうか。つまりアダムやエバが堕落以前に持っていた神の似姿としての特権が、再び与えられるという希望が私たちにはあるのです。
 
 それどころか、私たちにはもっと大きな希望が与えられています。なぜなら、私たちはイエスキリスト御自身にこそ、人間のあるべき原型を見ることができるからです。キリストこそが、私たちの模範であり、目標でもあるのです。すなわち、私たちの人間のあるべき姿への回復とは、キリストの御姿へと変えられていくことにほかなりません(ローマ8:29)。そして、その回復はキリストの再臨に日に完成されるのです(Iヨハネ3:2)。つまり、「キリストに生かされて」いるとは、「キリストの御姿に変えられていく」という側面があると言えるのです。

 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(IIコリント3:18)

 キリストは今も、御自身の栄光を輝かせながらこの世界を治めておられます。そして私たちはその栄光を自分たちの身に受け、反映させることによって、神の栄光を現し、徐々にキリストと同じ姿に変えられていくのです。このような御霊の働きが私たちのような者たちに約束されているということは、主の大いなる恵みにほかなりません。主の栄光をこの身に受けつつ、やがてはキリストの姿へと変えられていくことに希望を抱きながら、「キリストに生かされて」歩む人生を備えてくださった主に、まず心から感謝したいですね。

(PILE UP第2号より)

3つのキーワードから 岸本大樹主事
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(Uコリント5:12)

 昨年8月、国際福音主義学生連盟(IFES)の東アジア地区大会(EARC)が東京で行われました。この大会を通してKGKは“再建”を学びました。この“再建”を踏まえて、NCの準備委員会はテーマを考え始めました。我々、日本のキリスト者学生は“再建する”ために何が求められているのか…。“再建する場”はどこなのか見つめ直す必要もあるのではないか…。そもそも我々は自分たちの足元から“再建”しなければならないのではないか…。様々な意見が交わされる中で、我々はNCにおいて次の3つのキーワードにこだわることを決めました。

@ 救い
 救いはキリスト者の原点とも言うべきものですが、我々は救いが神の圧倒的な恵みであることを忘れがちです。自分たちの信仰深さや奉仕の実績によって救いを考えたり、確認したりしようとするのではないでしょうか。しかし、主イエス・キリストの十字架によって、罪人であった我々は救われ、教会を作り上げていく者とされたのです。“再建”を始めた我々が今一度確認すべきことは、この救いの豊かさや大きさです。

A 献身
 “再建”するにあたり、神に献身していく姿勢が求められています。献身と言うと、我々は牧師や宣教師になることだけを考えがちです。しかし、献身とは、牧師や宣教師になることだけでなく、全てのキリスト者が求められているものです。神の恵みによって救われた我々が、たとえ小さな者であったとしても、神に応える生き方こそ献身の第一歩です。NCのプログラムの中盤では献身についての理解を深める予定です。

B 派遣
 我々、キリスト者は、神の歴史の中に生かされ、学内や社会、日本や世界へ、使命をもって主に遣わされています。また、我々には兄弟姉妹だけでなく、隣人が存在しています。我々は無重力空間の中に、漠然と生きているのではありません。我々が遣わされているところをNCにおいてしっかりと見据えていきたいと思います。

 この3つのキーワード(救い、献身、派遣)を考えた上で、準備委員会ではUコリントの第5章をNCのテキストとして選びました。テーマについては、今までのNCを振り返ると関西地区がホストの場合、シンプルなものにすることが多かったのですが、今回もそうなりました。ずばり、「キリストに生かされて」です。
 
 NC2010において、“再建”を始めた我々がキリストに生かされていることの喜びや感謝を新たにされたいと願っています。

(PILE UP第1号より)

テーマ説明

キリスト者学生として、私たちは今どのように生きているだろうか?

学内で聖研をする時。

教会を建て上げようとする時。

一人で祈る時。

友人や家族、恋人と話をする時。

学業に取り組む時。

将来について考える時。

直面する様々な場面において、私たちは何を動機とし、
どのような目的を持って、如何に生きようとしているだろうか。


キリストの使徒パウロ。

彼の生きる動機は、彼自身の罪のために十字架にかかってくださったキリストの愛であり、
その目的は彼自身のために死んでよみがえられた方のために生きることだった。

だからこそ、彼は宣教地での迫害や教会内の問題に直面しながらも、
神と人とのためにその身を献げ続けることができたのだ。


キリスト者として生きること。

キリストに出会い、十字架の愛によって救われ、新しいいのちを与えられた者として、
キリスト者はその生き方を問い続ける必要がある。

「キリストに生かされて」私たちはどのように生きるべきだろうか。

「キリストに生かされて」あなたはどのように生きますか。