宗教改革と三好長慶 世界と日本は繋がっている!

昨日は、ハロウィン・・・ではなくてプロテスタント教会にとっては非常に節目である宗教改革500周年でした。
ドイツのヴィッテンベルグ城門にマルティン・ルターが後に「95か条の提題」とう教会の刷新、原点回帰を求めて公開質問状を出したのです。
ルター自身は当初はプロテスタントという教派やルター派という派閥を形成しようとするつもりはなかったのですが、当時の政治体制も相まって論争は拡大していき、彼の投じた一石は欧州全体を巻き込んでいきます。

今でも英語をはじめとする欧州原語で大文字で「Reformation」(改革)と書けばそれは即ちそれはルターの宗教改革を意味するほど、この改革のインパクトは大きいものでした。

それが地元大東市の英雄、三好長慶とどう関係しているですかって?

はい、とにかくルターが現れるまで西欧にはキリスト教といえばローマ・カトリックしかなかったのです。それが急に半分がプロテスタントになっちゃったわけですから、カトリック側が危機感を感じて「対抗宗教改革」という運動を起こしたんです。その運動のひとつに内向きだったカトリック教会が海外宣教を始めたのです。ルターが公開質問状を出したのが1517年そこから32年の1549年にはキリスト教(ローマ・カトリック)が戦国時代の日本に伝来します。

一時は天下人となった三好長慶はキリスト教を奨励し、家臣にも少なからずキリシタンがいました。九州のキリシタンと並んで河内キリシタンという大きなカトリックの信徒集団が形成されたのも彼の影響によるところがおおきいでしょう。戦国大名がキリスト教をどう取り扱うかが大きなファクターのひとつでしたが、そもそもマルティン・ルターが一枚の紙きれを今から500年前に城門を貼らなければ、戦国の世にキリスト教が日本に伝わることもおろか、南蛮貿易も無かったかもしれないわけで・・・ルターの起こしたアクションが40年後には地球の反対側にいた日本人に少なからず影響を及ぼしたわけです。

ちなみに、ルターが先駆けとなったプロテスタントそのものが日本にはじめて伝わったのは1859年!カトリックから送れることなんと300年以上も後になります。

自分の何気ないたちいふるまい次第で、それが後の世界がひっくり返るほどの大きなうごきにつながっているかもしれない・・・そう思うとドキドキすると同時に、襟を正される気分になります。

https://mainichi.jp/articles/20171101/k00/00e/030/213000c

三好長慶

三好長慶


キリスト教での『幸せ』の定義(マタイ5:1~12)2015年2月15日のメッセージから

山上の説教の冒頭の部分です。この部分は7章まで続く説教の第一声です。掴みの部分です。選挙戦が始まる時、各党党首の第一声は今でもニュースになります。そして、第一声というのは「解説」ではなく聴衆の不満、理想を代弁するものです。私は声が大きい方ですが、イエス様の説教での声の大きさはその比ではありません。音響の悪い屋外で、マイクもなしに、青空でしかも山上で、何千人という聴衆を聴かせました。声が大きいだけでなく、聴衆が本当に聴きたいと思わせるような話だったのです。

イエス様は第一声を(心の)貧しいものは幸いです。とおっしゃいました。

この言葉の背景には、その言葉を聴く聴衆の、貧しいことに関する不満、経済格差を何とかしてほしいという理想、結局は私は高潔な志ではなくて、自分が幸せになりたいという本音、その手段として自分も豊かになりたいと考える心理。それらを全部踏まえて代弁した第一声でありました。聴衆は、この第一声を持って静まり返るようにして主イエスの説教に聞き入ったことでしょう。ある人は、この山上の説教の冒頭部分を八福の教えと言ったりします。『幸せになるための秘訣8ポイント』としてハウトゥーとして理解するのです。しかし、イスラエル人の思考回路にそうならこれは、詩篇に見られる並行法とも読めるのです。そして、8つのポイントというよりもたった一つの真理を語りかけています。そして、この並行法は対になっています。

 

受動的な 第一連

能動的な 第二連
心の貧しき者 憐れみ深い者
悲しむ者 心の清い者
柔和な者(へりくだる者)

(強者にやりこめられる者)

平和を(積極的に)作る者
義に飢え渇く者 義の為に迫害されている者

この八福の教えは、全部矛盾しています。一般に貧しいものは不幸とされているからです。そして、この受動的、運命論的な第一連は第二連にあるような運命に抗う能動的、挑戦的な行動をした者が到達する境地なのです。
憐れみ深くあろうとしたけれど(7節)…自分は結局のところ人を憐れむ程の余裕もない自己中心的な心の貧しい(3節)ものだ…。
こころ清くあろうとしたけれど、自分の中に清さなど微塵も無いことに気づいてただただ悲しい。
積極的に平和を作ろうとしたけれど、強者にやりこまれてしまった。
義の為に迫害されるほど義を求めたけれど、結局義はやってこず義に飢え乾いている・・・。
と言った具合です。そして、そんな人たちは幸せではなくて不幸な人たちです。なのにその人たち対して「よっ!この幸せ者」と主は呼びかけるのです。(原文では「幸いです」は呼格< vocative>で書かれている。)そう、この説教は矛盾に満ちています。しかし、人類史上最大の矛盾とは何でしょう、最も憐れみ深く、最も心の清い者で、最も平和を作る者としてこの地上に来られた方が義の為に迫害され、貧しくせられ、世の悲しみを自分の悲しみとし、時の権力者に徹底的にやりこめられて、『我が神、我が神どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と、この世の不義を嘆いて惨たらしく無実の罪で処刑された人がいます。イエス・キリストその人です。この山上の説教が語るのはこの世の矛盾です。しかし、主イエスもこの世の矛盾の解消のためにいらっしゃったのです。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

ノンクリスチャンがこんな神がいるなら世の中どうしてこんな矛盾だらけなんだ…。絶対に神など信じないと言う時、その矛盾、その信じない理由こそが私たちクリスチャンが主を信じる理由であるというのです。

この説教の説教者であるキリストの生涯にまで視野を広げて説教を聞くとき、この矛盾がむしろ私たちに得心を与えてくれるのです。

フィンセント・ファン・ゴッホ作「悲しむ老人」

フィンセント・ファン・ゴッホ作「悲しむ老人」


私たちの必要を豊かに満たすキリスト(マタイ14:13~21)2015年2月8日のメッセージから

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に記載されている出来事のうち、4福音書全てに記載されている記事は実はそれほど多くありません。十字架と復活の記事、それとこの5000人の給食の記事だけなのです。つまり、それだけ、この記事は重要であり、またマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書記者にとっては印象深い出来事であったと言うことができるでしょう。なぜ彼らの記憶に強くのこらせたのでしょうか?そのヒントは16節

しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけていく必要はありません。あなたがたであの人った地に何か食べる物をあげなさい」 というところにあります。

先日、仕事から早く帰る機会があり、玄関に置きぱなしだった買い物袋を息子と二人で2階の台所まで運ぶといった出来事がありました。しかし、3歳の息子にまさか生卵を持たせて階段を登らせる訳にも行きません。また体の半分もの大きさのある大根を持たせる訳にも行きません。おのずと息子に持たせるものは限られ、「息子に持たせる荷物を玄関で予め選定する」という工程が一つ増え、玄関と台所を往復する回数は私一人で運ぶよりも何倍も増し、大変な時間がかかりました。私の仕事を増やした当の息子は、『お母さんの買い物の荷物を運ぶのを手伝った』といってしたり顔ですが、親である私はおおわらわです。効率性だけ考えれば、全く持って無駄な作業でした。しかし、結果に対しては私も満足していますし、息子も、将来大人になった時に、全部親にしてもらったことよりもこういった出来事の方がきっと記憶に残っていることでしょう。

この5000人の給食はつまり、そう言うことなのです。全知全能の神、御子イエスにとっては、パンと魚を5000人の手元にいきなり、出現させる方が簡単でした。しかし、5つのパンと2匹の魚を弟子たちに拠出させ、配膳を弟子たちの手に委ねたのです。詳細は書かれていませんが、男だけで5000人、女・子供を合わせれば1万人以上いたでしょう。これは12人の弟子が、「パンを配るグループ」と「魚を配るグループ」に分かれて、一人につき5秒で効率よく配ったとしても1万人全員にパンと魚を配るのには2時間以上かかる計算です。

この一見すると面倒くさいことが弟子たちとって実は何より必要なことでした。そして、神様は、敢えて手間をかけて、人を通して、事を行われることがしばしばあります。福音宣教がまさにそうでありました。このわずか十数人に委ねられた福音が、いずれ世界帝国ローマ帝国をキリスト教国にかえ、世界中に福音が伝わったのです。5000人にパンを配るよりも世界中に福音を配ることの方がはるかに大がかりな奇跡であり、そのことを成させるためにも弟子たちの記憶に残る形で体験させる必要があったのです。

この奇跡は今も続いています。私たちも「パンを受ける側からパンを配る側に回るように」と主は仰います。その方が、もしかしたら神様の手を煩わし、時間がかかるのかもしれないのですが、主は私たちキリスト者を通して福音を広げると言う方法をお望みなのです。

ティントレット作「パンと魚の奇跡」

ティントレット作「パンと魚の奇跡」


『教会に来ること』より大切なこと(マタイ12:1~14)2015年2月1日のメッセージから

安息日に麦の穂をつんだイエス様の弟子たちにパリサイ人は言いがかりとを付けてきました。それに対して、イエス様は聖書から安息日は人が神様を覚えることが出来るようにするために神様が制定して下さったという、きまりがなぜ決まりとして存在するのかという立法趣旨からして、説明して下さいました。

法律は法律を守ること自体が「目的」ではありません。法律を守らせることは「手段」であって、法律を施行した結果達成される「目的」が別にあるのです。例えば「人を殺すな」という法律はそれを施行することで「人の命」を守ることが目的であり、「人のものを盗むな」と言う法律は「人々の財産を守る」という目的が存在します。

教会という制度はいイエス様が制定されたものです。ですから「人間の都合で行く、行かないを勝手に決めるのは本末転倒である」ということは断っておいた上で、それもでも敢えて厳しいことを言わねばなりません。教会の存立の為に、何かしらの奉仕を人に強制し、それがために人が躓くならそのような教会は存在しない方が良いのです。教会は人々が再び神様に目を向け、神様を礼拝するために、人間のために、神様が制定されたシステムなのですから・・・。

パリサイ人達は「神は憐れみはこのむがいけにえは好まない」という聖書の言葉の意味を理解していなかったがために、イエス様の弟子たちを裁いてしまったことをイエス様に指摘されました。

これは、法律、ルールが運用されるそもそもの動機について説明しています。この世の社会の組織の多くは営利目的で動いています。ただ非営利で動いている組織もすくなからず存在し、たとえば、日本赤十字社の血液事業は100%有志の人々の献血でなっています。日本では年間200万リットルの血液が献血、輸血され、慢性的な血液不足に陥っていますが、だからといって足らずまいの10万リットル分だけ売買血(戦前は実際に行われていた)を導入したらどうなるでしょう?おそらく血は10万リットル増えるどころか逆に減るはずです。なぜなら、それまで献血していた人達の多くも、「なぜ自分たちだけ無償で血液を提供しなければならないのだ」といって、自分の血液も買血するように求めてくるはずだからです。そうすると、人々の慈善の働きで成り立っている血液事業全体が成り立たなくなってしまいます。

この世の慈善の働きですらそうなのです。ましてや、教会内の奉仕で、それは椅子並べであったりトラクトまきであったり、トイレ掃除であったりに、「受益者負担の原則」や「自由競争の原則」や「契約自由の原則」なんかを導入しようものならたちまち教会は解体してしまうでしょう。ですからみなさん、教会に来ることが信仰生活の第一目的になってはなりません。神様の愛を存分に受けてその愛の応答として教会で奉仕をして下さい。そして、神様の愛を受けるための恵みの手段として神様が制定して下さったのが、教会の日曜礼拝というシステムなのだということを改めて心に留めましょう。

ジョン・エヴァレット・ミレー作「安息の谷間」

ジョン・エヴァレット・ミレー作「安息の谷間」


貧しき者への福音(マタイ11章2~19節)2015年1月25日のメッセージから

バプテスマのヨハネはイエス様の親戚(おそらく従兄)です。イエス様より半年ほど前に生まれて救世主の到来を預言しました。史上最高の預言者とも言われるバプテスマのヨハネ…。晩年、捕らわれの身となった彼は、使者を介して「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と主イエスに言い送ります。この問いかけはややもすると彼の弱音か、はたまた宣教が遅々として進まないキリストに対する不満にさえ聞こえます。主イエスはバプテスマのヨハネに対する返事もそこそこにして、その後、群衆に向かってヨハネの功績を説明する際に、

 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

と意味深な発言をします。ヨハネのせいで天国が侵略されているというのです。さて、史上最高の預言者ヨハネと救世主キリストの間に一体なにがあったのでしょうか?

イエス様がバプテスマのヨハネに送った最後のメッセージは、病人が癒され、死者が生き返り、そしてなにより「貧しいものへ福音が伝えられていること」が、しるしであると言っています。これらはそれぞれ、イザヤ書33章や61章の預言の成就とみると同時に、「死者の復活」よりも「貧しいものへの福音の伝播」こそが大事であるというのです。そして、その伝播の最大の功労者はバプテスマのヨハネその人であり、最後までその任務を遂行した彼は躓かなかった者である、幸せ者であると呼びかけているのです。これは主イエスからヨハネに対する最大限の賛辞です。イエス様は山上の説教の際、「幸いなるかな貧しき人よ」から、説教を始めますが、これはバプテスマのヨハネが語り続けてきた福音と別物ではなくて、彼が伝え続けてきた福音の延長線上にあるもので一貫したものであることを意味します。主イエスは、この私信を伝えたあと、聴衆に向かって、荒野で社会的弱者に揺るぎない福音を語り続けたバプテスマのヨハネの素晴らしさを解き、彼は史上最大の大役を成し遂げたし、また大役を成し遂げるにふさわしい力量で有ったことを解きます。彼によって伝えられた福音は一部の宗教家だけでなく、だれでも神の国に入ることが出来るようになったと言う意味を伝えるために、12節で「天国が攻められる」という表現を用いたのです。バーゲン品を買い物客が大挙して取り合うかの如く天国への切符がディスカウントされたと主イエスはおっしゃっているのです。この後続くノンクリスチャンでも知っている故事成語「笛吹けど踊らず」ということばは、そのようなバプテスマのヨハネによる最大級の福音の到来のチャンスですら、福音に耳を貸そうとしない人への警告のメッセージだったのです。

マタイ11章は一瞥すると難解な個所ですが、貧者への福音というキーワードで文脈を読み解く時、神様の御計画の壮大さ一貫性をのべつたえ、さらには、この福音だったからこそ私たちのようなものでさえ救われたのだと言うことを確信を持って教えてくれるのです。

ベルナルド・ストロッツィ作「洗礼者ヨハネの説教」

ベルナルド・ストロッツィ作「洗礼者ヨハネの説教」