「願う祈りではなく聞く祈り」( Ⅰサムエル3:1~14)7月7日のメッセージから

少年サムエルは神様から言葉を頂きました。サムエルと呼びかけられて、「はい、ここにおります」と素直に答えます。でも、彼が預言者として最初にすべき仕事は自分の信仰の父であり、また育ての親であるエリが実子への監督不行届を理由に永遠に神様の裁かれるということをエリ本人に告げることでした。エリ自身も神様から自らの滅びについて聞いており、サムエルの預言を聞いた時に、「それは真に神のお告げである」と言いました。自分の好まざる神の計画を知らされ、語らされ、聞かされる。語る方も、聞く方も神様の絶対的な主権を信じ受け入れているそんな厳粛な場面です。
預言は次のような物でした。実子(ホフニとピネハス)が神に背くような歩みをしている。エリはそれを看過して厳しく戒めていない。そのため、実子は二人もと同日に死ぬ。それがエリへのしるしであり、出エジプト以来のレビの家系であるエリの家の祝福は取り去られる。一族はみな早死にする。代わりに別の家系を勃興させる。生き残りの者も祭司の仕事を、その新興の一族に願わなければならなくなるほど没落する。
事実、ホフニとピネハスはⅠサム4章で同じ日に戦死し、知らせを聞いた98歳だったエリも訃報を聞いて転倒、頸椎骨折でその日に死去。妊娠中だったピネハスの妻も生まれてきた子ども(つまりエリの孫)にイ・ガボテ(「栄光はどこに」の意)と言う名をつける程、エリの一族は没落していきました。時代は下ってエリの一族はダビデとサウルの政争に巻き込まれ、ダビデを匿ったという咎で謀反人の疑いがかけられ、一族郎党85人全員が殺されるという憂き目にあいます(Ⅰサム22:18)。
恐ろしい程に預言は的中してきます。しかし、預言は同時に一人の人が残されること告げており、この凶事からエブヤタル(「偉大な父」の意)生き残び、ダビデ政権の祭司長にまで上りつめます。しかし、その彼も、ダビデの死後後継争いでソロモンの異母兄の後見人に立ってしまい、後に王になったソロモンに祭司職を罷免されアナトテに蟄居を命ぜられます。『こうして、シロでエリの家族について語られた主のことばは成就した(Ⅰ列王2:27)』100年以上の歳月を経て全て成就したのです。
エリがホフニとピネハスに『人がもし、他の人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をして下さる。だが、人が主に対して、罪を犯したら、だれがその者のために仲裁にたとうか』(Ⅰサム2:25)と言った通りでした。しかし、この話にはまだ続きがあります。アナトテから、ヒルキヤ(「主は分け前」の意)という名の祭司の父を持つ、エレミヤ(「主は高く上げる」の意)という預言者が興されました。そうです、主はエリを忘れず、残りの者を興させ、エレミヤの口から、絶望の中で新しい契約と、一度壊された物が再建させることを語らしめたのです。主の御計画のなんと奇しいことかな。主の主権を認め主に聞く祈りを致しましょう。


注ぎ出す祈り(Ⅰサムエル1:1~19)6月30日のメッセージから

今日から二ヶ月にわたって祈りの色々な側面を見てみたいと考えています。祈りとは単に神様にお願い事をすることに留まりません。私たちの主であり神の子であるイエス・キリスト御自身も祈りを欠かさない方でした。彼は三位一体の神ではないのですか?御父と御子は意思が一致していて、「ツーカー」の仲なのではないのですか、いえ、ツーもカーもなく意思は一致しているはずではないのですか、そうであるはずなのに、人として主イエスはいつも御父に対して祈りました。私たちも御子の昇天の後聖霊が与えられ、この聖霊によって天の神様に祈らさせられていますし、聖書には祈れと明示的命令しているところもたくさんあります。このことからも、祈りは神に願いを聞いて頂くための手段だけにとどまらず、祈りを通して神と交流すること自体が人の目的ということもできるでしょう。そうであれば、私たちの信仰生活において、祈りは圧倒的に少なすぎるし、私たちの祈りは大胆さに欠けるということもできましょう。
「生まず女」と呼ばれ、自分以外の夫の妻から(当時は一夫多妻制)過度の嫌がらせを受けていたハンナはエリをはじめとする周りの人から、酔っていると思われるほどの激しい祈りをしました。それを彼女自身「注ぎ出す祈り」と言っています。その祈りは詩篇62:8 民よ。どんなときにも神に信頼せよ。あなた方の心を神の前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。
にも通じる祈りだと思われます。自分の要求を聞いて頂いて、信仰生活を前進させることだけが祈りではないのです。神様を避け所(避難所)として後退し、他の聴衆に聞かせるような素晴らしい祈りをするのではなく、自分の心を洗いざらい神様に注ぎ出す祈り(それこそ、エリが酔っていると見まがうような)をしてでも神様と交流することをまず第一の目的とする時、私たちは神様から新しく力を頂き、確信を頂き、新しく教えを頂いて前進することができるのです。詩篇62:1には「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」とあり、Ⅰサム1:13では「口パク」する祈りが記されています。その内容たるや、きっと、きれいごとではなく、不平不満、愚痴、悪口雑言の類もあったはずです。それらも全て神様に注ぎ出すときに私たちは自分が何者かを教えられ、神の主権を知り、神の御心にそったかなえられる祈りを祈れるのだろうと確信します。
そう、イエス様は祈られるときいつもさみしい所に退かれ、ゲッセマネの祈りでは自分に課せられた使命を回避したいことを正直に吐露されたのですから、そしてクリスチャンの修養会のことを、リトリート(後退・防御)というのですから…。


7月7日のメッセージの予定

今度の日曜日は七夕ですね。日本ではお空に向かって星に願いを託す方も多いかもしれませんが、聖書には願うだけではなくて、逆に耳を傾ける祈りも書かれています。

来週の日曜日は第一サムエル記3章1~14節から

「願う祈りではなく聞く祈り」といテーマで話がされます。

午後二時から集会があります。皆さま万障繰り合わせのうえ是非お越しください。

NASAが公開した天の川の写真

NASAが公開した天の川の写真


「らしさ」はいらない(使徒15:1~11)6月23日のメッセージから

「らしさ」とはなんでしょうか。例えば「男らしい」さ、「女らしい」という言葉を出てくるときに、発言者は「男とは(女とは)かくあるべき」という前提を持っていて、それに該当するものを「らしい」存在とします。対象となる存在以前に発言者のなかに前提があるのです。そして、往々にしてそのらしさを強調する人は、らしさの枠の中にいる多数者であり強者なのです。そして、その合理的根拠のない「らしさ」を相手に強いる時、「らしさ」の枠の外にいる少数者は「らしさ」の枠に入らんがために、「らしさ」の枠の中にいる人以上にらしさを求めます。多数者からの同化圧力によって「自発的に『らしく』あるように強いられるのです。第二次世界大戦中の日本人以上に日本人らしく振舞った沖縄人しかり、アメリカ人以上にアメリカ人らしく振舞った日系米国人しかり…あるいは聖書のなかのヘテ人ウリヤしかり、異邦人の為の使徒パウロしかりです。
この使徒15章のエルサレム会議はパリサイ派出身クリスチャンが提示した「クリスチャンらしさ」が妥当であるかが問われた会議でありました。教会が出来て10余年。そして、アンテオケ教会がおきるまで10年以上積極的な異邦人伝道が行われておらず、クリスチャンの大半が元ユダヤ教徒であり、ユダヤ教徒らしく振舞うことが同時にキリスト教徒らしいことと同じと見做されていた時代でした。この会議の中で敢えてパウロは発言せず、ペテロが発言します。そして、ペテロは自分たちが神の恵みによって救われたのあるから、「クリスチャンらしい」とはその当時の教会の多数者の行状に合わせることではなくて、キリストの十字架と復活の福音の中に生きることこそ「クリスチャンらしい」ことの必要十分条件であることとすべきだと発言したのでした。
留意すべきは、ペテロは異邦人と食事をすることに抵抗を感じた人間であったことが使徒行伝からも分かりますし、パウロにしてもエルサレム会議で発言したパリサイ派と同じ出身でしたから、彼らの言わんとすることは心情として理解できました。そして、かれらの言い分を聞く方が、彼にとっても居心地がよい教会をつくることになったはずです。しかし、私たちが救われたのは私たちが行いにおいてクリスチャンらしいから救われたのではないということを肝に銘じておくべきなのです。