姦淫の場で捕えられた一人の女(ヨハネ8:1~11)7月28日のメッセージから S兄による

<1、2 節>主イエスは、宮ですわって人々に教えることを習慣としておられました(マタイ26:55、マルコ14:49)。
<3、4 節>律法学者とパリサイ人が現れ、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置きました。彼女は、現行犯逮捕されたので、姦淫の罪について言い逃れることはできませんでした。
<5、6 節>律法の規定では、姦淫を犯した者は必ず石で打ち殺されなければなりませんでした(レビ記20:10、申命記22:22)。律法学者とパリサイ人は、主を告発する理由を得るために、「あなたは何と言われますか」と言いました。なぜなら、もし律法の規定に従ってこの女を石打ちにするように主が言われたならローマの法律に違反しますし、また、もしローマの法律に従うように主が言われたのなら律法に違反するからです。
<7、8 節>律法学者とパリサイ人は、実に巧妙なわなを主イエスにしかけました。彼らは得意になってしつこく主に問い続けたのでしょう。ついに主は口を開かれ、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。「罪のない」、これこそが罪をおさばきになる神の基準です。
<9 節>この場にいた人々は、初め、自分たちを「罪を犯したひとり(女)と、その他全員」に分けて考えたことでしょう。しかし、主のことばによって、「罪のないひとり(主)と、その他全員」であることが明らかになりました。そのため、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行きました。
<10、11 節>主は女に、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。主こそ、罪のない方であり、最初に彼女に石を投げる資格のある方でしたが、やがて実現する十字架上でのみわざに基づいて、罪の赦しを宣言なさいました。
最後に主はその女に対して、「今からは決して罪を犯してはなりません」と言われました。罪の赦しは恵みによることですが、恵みは罪を容認することではありません。神は、私たちのすべての罪を赦すために、十字架においてご自分の御子の上に、罪に対する激しい怒りをすべて注がれました。また、「今からは決して罪を犯してはなりません」ということばは、罪の赦しの条件ではありませんでした。むしろ、彼女が、罪が赦されたことを喜ぶだけではなく、罪を赦してくださった方を喜ぶようになるためでした。
私たちにとって、自分の罪深さを知ることは、そのような罪深い者をも愛して赦してくださった方のすばらしさを知る機会になります。キリストのみわざのゆえにすべての罪を赦してくださった神の愛は、いつまでも変わることがありません。ですから、私たちは自分自身の何かに目を留めるのではなく、私たちを愛してご自分のひとり子さえも惜しまずに与えてくださった方にこそ、また、私たちを愛して十字架でいのちを捨ててくださった方にこそ目を留め続けるのです。